ミスタープロ野球の死に際し、様々な球界OBらが各メディアでその思い出を述懐しているが、阪神・岡田彰布オーナー付顧問のそれは、独特なもの。なんとも「不思議な縁」を明かしたのだった。
岡田氏は「週刊ベースボール」誌上でコラム「岡田彰布のそらそうよ」を連載中だが、6月12日発売の長嶋特集号ではミスターを「最大の敵やった」と回顧している。
少年時代を大阪で過ごした岡田氏は父親の影響で阪神ファンとなり、甲子園球場での野球観戦が日常に。巨人戦では阪神側の1塁スタンドではなく、3塁側に陣取った。サードを守る長嶋さんのプレーを間近で見つつ、長嶋さんを野次るのが目的だったというのだ。
岡田少年にとって、長嶋さんは抑えなければ勝てない最強の敵。阪神が勝つよう、必死で長嶋さんを野次っていたのだ。
岡田少年はその後、北陽高校を経て早稲田大学に進み、六大学野球を代表する野球選手に。1979年のドラフト会議の目玉だった。
ドラフト前日、早稲田の寮に岡田氏宛ての電話がかかってきた。相手は甲高い声で「巨人の長嶋です」と名乗ると「巨人も1位で指名しますから。よろしく」と語ったというのだ。岡田氏からすれば、まさかの電話である。
ドラフト当日、岡田氏は6球団から指名を受け、阪神が交渉権を獲得したが、6球団の中に巨人はなかった。
巨人は日本鋼管の木田勇投手を1位指名したが、3球団の競合に敗れ、市立尼崎高校の林泰宏投手を獲得している。
巨人からも指名されるのかと考えていた岡田氏は「エッ、昨日の電話はいったい何やったんやろ」と、不思議な気分になったという。そらそうよ、である。
プロ入り後、岡田氏と長嶋さんの接点はほとんどなく、オールスターなどで挨拶するくらい。今とは違って他球団の人間と仲良く話す風潮などなく、ましてやミスタープロ野球と親しくする機会には恵まれなかった。
結局、ドラフト前夜の電話の意図を、長嶋さんから聞く機会は訪れないままに終わる。
岡田氏は「今も甲子園の三塁を守る背番号3の姿は覚えている」と回想し、「野球界を発展させてくださったのは間違いなく長嶋さんやった」と綴っている。
今年に入り、阪神のレジェンド吉田義男氏、小山正明氏が続けて亡くなり、永遠のライバルで、巨人の象徴である長嶋さんも旅立ってしまった。
岡田氏にとっては、ひとつの時代の終焉を意味しているのだろうか。
(石見剣)