長嶋茂雄の野球人生を語る上で、最上位に位置するであろう2人の名前は欠かせない。野村克也と王貞治─。ライバルであり、盟友であった存在が、スーパースターを奮い立たせ、より輝ける高みに押し上げていったのである。
1958年9月1日、東京駅頭に夕闇が迫っていた。この日、巨人ナインは広島遠征のために列車を待っていた。
長嶋茂雄と川上哲治の前で、紺のズボンに半袖の開襟シャツ姿の高校生が頭を下げた。前日、早稲田実業から巨人入りを表明した王貞治だった。川上は上機嫌に「よく入ってくれたね」と声をかけた。
巨人はこの日を「ON」の公式的な初対面の日として記録している。
同年のゴールデンルーキー・長嶋はすでに大活躍していた。8月5日の広島戦で初めて「4番」に座った。通算85試合目だった。そこから最終戦まで4番に座り続けた。終わってみれば打率3割0分5厘、29本塁打、92打点という新人らしからぬすさまじい成績を残した。
本塁打と打点で二冠を獲得。打率も阪神の田宮謙次郎にわずか1分5厘及ばずの2位だった。
田宮が終盤戦に欠場すると、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げた。ライバル不在が逆効果となったのである。
新人で三冠王という、プロ野球史上初となる空前の快挙まであと一歩だった。
さらに惜しまれるのは9月19日、広島戦(後楽園)での幻の本塁打。長嶋はルーキーイヤーをこう振り返っている。
「まあボクとしては、よくやったんじゃないかっていう気持ちはありますね。プロとしての自信も持てましたしね。ただ残念だったのは、あのベースを踏み忘れて本塁打を1本損したこと。あれさえなければ本塁打も30本でトリプルスリーが達成できた‥‥」
シーズン最多安打、最多二塁打、最多塁打など打撃タイトルをほぼ独占、さらに盗塁も2位の37個だった。
むろん、文句なしに満票でセ・リーグの新人王に選出された。
その長嶋は、東京駅に挨拶にきた王がのちに同じ打者の立場で同じチームに在籍し、文字通りしのぎを削るライバルになるとは思ってもみなかったことだろう。
王は入団当初、華々しく登場した長嶋とは違って、プロの壁に悩む高卒ルーキーだった。長嶋との競争心が、高みを目指す原動力となった。
「存在感では全然かないませんから、バットで存在感を示すしかありませんでした。ホームランをとにかく追いかけた。数字でしか争えませんでした」
王が大ブレイクしたのは、4年目となる62年である。打撃コーチ・荒川博との血のにじむような特訓の末「一本足打法」を完成させる。遠くへ飛ばすという恐るべき才能が開花したのだ。38本塁打を放って本塁打王を獲得。以来13年間にわたってその座を守り続けた。
ここに本塁打を量産する左の長距離砲と、チャンスに強い右の中距離打者という、タイプの異なる打者が組み合わさり、巨人の3、4番はプロ野球最強の破壊力を発揮して、「ON黄金時代」を築いていくのである。
スポーツライター:猪狩雷太