長嶋はよく「記録よりも記憶の人」と称されるが、実際は記録も凄い。それが霞んで見えるのは、王の記録がそれに輪をかけて凄すぎるからだ。
王が入団した59年から長嶋が引退した74年までの16年間、セ・リーグ打撃タイトルを2人でほぼ独占している。
「首位打者」を王は5回、長嶋は6回、「本塁打王」は王が13回、長嶋が1回、「打点王」を王が9回、長嶋は4回獲得している。
長嶋は61年に三冠王のチャンスを逃した。大洋(現DeNA)の桑田武と本塁打と打点で激しく競り合ったが、結果は長嶋が首位打者と本塁打王を獲得し、打点で桑田に抜かれた。110試合目までは長嶋が1位だったが、最終的に長嶋86打点、桑田は94打点だった。
最も惜しかったのは63年。長嶋の前に立ちふさがったのは、まさに王である。
同年の長嶋は開幕から絶好調だった。打率と打点でトップを走り、残る本塁打で王とデッドヒートを繰り広げた。
長嶋は118試合目で37号を打っており、この時点で王を2本リードしていた。しかし、シーズン閉幕まで22試合連続で本塁打が出なかった。王はこの間、5本塁打を放って40本塁打で逆転する。
新人時代を含めて、長嶋が3度のチャンスのいずれかをものにしていたら、巨人の背番号「3」の大先輩、中島治康に次ぐプロ野球史上2人目の三冠王の栄誉に輝いていたはずだった。
長嶋がなしえなかった、その史上2人目の栄誉に輝いたのは、南海(現ソフトバンク)の野村克也だ。
65年10月5日、野村に「朗報」が届いた。野村の第一声はこうだった。
「へえ、本当かいな。信じられんようなことやないか」
同年、春先から打ちまくった。打率、本塁打、打点でトップを行く野村を猛追していたのが、阪急(現オリックス)のダリル・スペンサーだった。
三冠王争いはあっけない幕切れとなった。スペンサーが10月5日午後、愛車のモーターバイクで事故を起こした。右足の骨を2カ所骨折する、全治2カ月の重傷だった。
スペンサーは11試合を残して離脱。この時点で打率3割1分1厘、38本塁打、77打点である。
野村の最終成績は打率3割2分、42本塁打、110打点だった。
「多分に、これはラッキーな面があったね。本塁打と打点はかなりの線までいけると思っていた。それが最後に追い込んできたスペンサーがああいう大きな事故を起こした」
そして自分を戒めるように言った。
「こういうラッキーがなきゃ、3つ取れるという実力は自分に備わっていないしね」
三冠王という称号は、野村が獲得するまであまり注目されていなかった。プロ野球機構が改めて過去の記録を洗い出すと、38年に中島が春秋2シーズン合算で打率、本塁打数、打点の3部門でトップだったことが判明した。
この時点でようやく機構は中島を「最初の三冠王」と追認する。結果、野村は「戦後初の三冠王」と呼ばれるようになった。
スポーツライター:猪狩雷太