「田園調布 長嶋茂雄」と宛名を書いただけで、自宅にファンレターが届いたのは、スーパースターならではだろう。地域住民にも愛される一方、時には“お騒がせ”で頭を下げることもしばしば。かの地でミスターはどんな私生活を送っていたのか。語られなかった暮らしぶりにスポットを当てる──。
重厚感のある瀟洒な佇たたずまいの大邸宅が並び、日本有数の高級住宅街で知られる東京・田園調布─。
放射状に広がって区画整理された道路と、イチョウ並木に彩られた街でミスタープロ野球・長嶋茂雄氏(享年89)は暮らしていた。
自宅近くや多摩川を散歩するのが日課で、近隣住民とすれ違うと晴れやかな笑顔で挨拶を交わしていたのは、いつもの光景だった。
穏やかな時間が流れる一方、一挙手一投足が注目を集めていた長嶋氏からコメントを取ろうと、かつては自宅前にマスコミが集まって騒がしくなることも。当時のスポーツ紙記者はこう振り返る。
「80年10月に巨人の監督を解任されて、“浪人時代”を過ごしていました。巨人愛が強かったものの、やっぱりグラウンドが好きなんでしょうね。“ユニフォームを着たい病”になるので西武、大洋(現DeNA)、ヤクルトと監督要請を受けるたびに大騒ぎ。特に大洋とは83年秋に契約寸前まで話が進みました」
熱烈ラブコールで球界復帰への機運が高まり、具体的な条件交渉も進んでいた。長嶋氏の心も傾く中、人生の師と仰ぐ4人に相談する。全員が背中を押してくれることを期待したが、4人中2人が反対。どんでん返しで大洋に断りの連絡を入れた。
まさかの決断の真意を聞こうと、ものすごい人数のマスコミが長嶋邸前に押しかけてきた時、先のスポーツ紙記者は不思議な光景を目撃する。
「パシャパシャと尋常ではない数のフラッシュが焚かれると、真夜中の暗さと相まってなのか、ミスターの姿が空中に浮かんだように見える現象が起きたんです。あまりの神こう々ごうしさに、取材中なのを一瞬忘れてしまうほどでした」
選手や監督時代、文化人として活動していた頃も一事が万事この調子でマスコミが殺到するため、時には亜希子夫人の雷が落ちた。
「マナーの悪い番記者連中がいて、時間もお構いなしに自宅のドアをガンガン叩いたり、長嶋さんの帰宅が遅ければその場で飯を食うのも日常茶飯事。テレビ局のスタッフには公道で出前をとる者もいたし、ファストフードでテイクアウトしたチキンにむしゃぶりつき、道路に食い散らかしていた奴らもいた。スパスパ吸ったタバコの吸い殻まで散乱する始末です。堪忍袋の緒が切れた亜希子夫人が『いい加減にしなさい!』と怒鳴りつけていました。長嶋家がご近所から苦情を受けて、頭を下げて回ることもあったそうです」(ベテランプロ野球記者)
ご近所トラブルになりかねない事態に、田園調布に暮らすマダムはこう話す。
「長嶋さんは気遣いの人。自分が自宅にいる時は、近所迷惑になるので少し離れた場所にある宝来公園に移動して、マスコミ対応をしていました」
それでも、マスコミの行儀の悪さはなかなか改善されず、たまりかねて住人が引っ越してしまったという話も。
実際、因果関係はわからないが、長嶋家に隣接した土地が空いたことがきっかけとなり、「レモン」をめぐる物語が誕生することになったのだ。