天龍源一郎の10年ぶり電撃復帰という起死回生策で、2000年6月の三沢光晴らの選手・スタッフ大量離脱の危機を乗り切った全日本プロレスだが、隆盛を取り戻すためにはさらなる起爆剤が必要だった。それは川田利明が全日本再出発の会見で口にした、新日本...
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2000年6月の三沢光晴をはじめとする選手、スタッフ30名の大量離脱で存亡の危機に立たされた全日本プロレスだが、7月1日のディファ有明で予定通りに「サマー・アクション・シリーズ」を開幕させることができた。それでも危機的状況は変わらない。旗揚...
記事全文を読む→2000年6月に勃発した全日本プロレスの分裂騒動。6月16日、三沢光晴は練習生(杉浦貴)、レフェリーのマイティ井上、現場スタッフを含む30人で新団体(プロレスリング・ノア)の設立を発表。その3日後の19日には川田利明と渕正信の2人が神奈川県...
記事全文を読む→2000年6月9日、日本武道館大会終了後、全日本プロレスが2つに割れた。しかし大会自体は普段通りで、不穏なムードはなかった。この日の目玉は世界タッグ王座決定トーナメント。1回戦で三沢&小川良成を撃破した大森隆男&高山善廣のノーフィアーと、ジ...
記事全文を読む→1999年5月2日の東京ドームにおける「ジャイアント馬場引退記念興行」の翌日から、全日本プロレスは三沢光晴を代表取締役社長とする新体制になった。オーナーの馬場元子夫人は「馬場さんとゆっくり2人で全日本を見ていられるような会社にしてほしいと思...
記事全文を読む→最強神話が崩壊した新日本プロレス、ジャイアント馬場という大黒柱を失った全日本プロレス‥‥1999年春、老舗2団体は大きな問題を抱えながらビッグマッチを迎えた。4月10日、新日本の東京ドームの主役は、1.4東京ドームでストロング・スタイルのリ...
記事全文を読む→1999年1月31日、ジャイアント馬場逝去。大黒柱を失った全日本プロレスは、馬場の後継者が決まらないまま、取締役の百田光雄とジャンボ鶴田、取締役選手会長の三沢光晴によるトロイカ体制で、2月13日の後楽園ホールにおける「ファン感謝デー」から興...
記事全文を読む→1999年は日本プロレス界にとって時代の変わり目となった。1月4日の東京ドームが大仁田厚の邪道色に染められ、強さの象徴とされていた橋本真也が小川直也の一線を超えるファイトで事実上のKOに追い込まれて、72年3月の旗揚げから〝キング・オブ・ス...
記事全文を読む→約10年もの長きにわたる、新日本プロレス暗黒期のスタートとなった1999年1月4日の東京ドーム。まず新日本の地盤を揺るがしたのは、第5試合に登場した〝邪道〟大仁田厚だ。大仁田は前年11月、新日本と全日本プロレスの2大メジャーに宣戦布告。大仁...
記事全文を読む→1998年下半期、全日本プロレスでは現場の全権がジャイアント馬場から三沢光晴に移り、選手たちが自己主張する三沢革命がスタートした。一方で新日本プロレスは、アントニオ猪木が立ち上げた世界格闘技連盟UFOとの関係に頭を悩まされていた。6月5日の...
記事全文を読む→1998年5月1日、三沢光晴VS川田利明の三冠ヘビー級戦をメインに据えた、全日本プロレスの東京ドーム初進出は5万8300人の大観衆を動員。全日本が築き上げてきた「はずれはない」というファンの信頼が生んだ成功だった。だが、その代償も大きかった...
記事全文を読む→新日本プロレスが日本縦断ドームツアーを成功させた1997年、全日本プロレスは年内ラスト興行となる12月5日の日本武道館でサプライズを仕掛けた。第4試合終了後、電光掲示板にお馴染みの「満員御礼」に続いて「25周年にあたる今年1年へのご声援本当...
記事全文を読む→1997年は新日本プロレスにとって、平成の絶頂期と言っても過言ではなかった。5大ドームツアー(東京2回、ナゴヤ、大阪、福岡)を成功させ、年間134試合で70万8464人の観客を動員したのである。ライバル団体の全日本プロレスも年7回の日本武道...
記事全文を読む→1997年の新日本プロレスは、オーナーのアントニオ猪木の介入によって小川直也という劇薬が投下されて、東京(2回)、ナゴヤ、大阪、福岡の日本縦断ドームツアーを成功させた。プロレス業界の盟主としての底力を見せたが、新日本人気は小川効果による格闘...
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