ブラッドスポーツとも呼ばれる競馬だけに、馬主もファンも常に種牡馬に悩まされるもの。特にディープインパクトとの交配は、牝馬を所有する生産者やブリーダーズオーナーから大人気だ。だが、大種牡馬サンデーサイレンスの1発2500万円に比べれば半額とは...
記事全文を読む→萩本欽一
〈泰然自若〉という言葉は、30年以上にわたって「いいとも!」を継続してきたタモリのためにある。膨大な生放送のストックには、あわや大惨事になりかねない瞬間もあった。それでも「サングラスの奥の瞳」は微動だにせず、次のコーナーへ穏やかに移行する。...
記事全文を読む→熱海から帰ったその日に連絡僕はその後「浅草新喜劇」という劇団を作り、その舞台をTBSテレビの向井さんというディレクターがたまたま観ていてくれて、テレビ出演の道が開けます。僕はテレビの生CM出演のチャンスに、NG19回という大失敗をし、一時期...
記事全文を読む→昔、堀ちえみちゃんから、「萩本さんと『コント55号』って何か関係があるんですか?」と聞かれたことがありました。「テレビを観てたら萩本さんが映ってて、その下に『コント55号』っていうテロップがあったんですよ」「コント55号」の結成は1966年...
記事全文を読む→失恋をバネに芸に邁進した失恋した僕を慰めて、救ってくれたのも東さんでした。僕は一人の踊り子さんが好きになりました。髪が長くてかわいくて、何よりも目がパッチリとして大きいところが、タレ目の僕には魅力的でした。当時の僕は19歳で、彼女は2歳年下...
記事全文を読む→僕がコメディアンになるきっかけを作ってくれたのは、中学2年生の時の担任、杉田静枝先生でした。髪の毛が長くて、あだ名は「アパッチ」。クラスでは、先生が教室に入ってくる前に、あだ名を黒板に書き、入ってくる寸前、消して自分の席に戻るというイタズラ...
記事全文を読む→「女」に目覚めた昌子ちゃんこれはちょっぴりエコひいきになってしまうかもしれませんが、3人の中では僕は森昌子さんにいちばん思い入れがあります。「スター誕生!」の第1号歌手は昌子さんでした。彼女が72年に「せんせい」でデビューし、その年のいろん...
記事全文を読む→僕が司会を担当した、歌手のスカウト番組「スター誕生!」(日本テレビ系・1971年10月スタート)からは数えきれないほどのスター歌手が誕生しました。多すぎて、顔や名前を覚えきれないほどです。川中美幸さんとテレビ局で会って「はじめまして」と言っ...
記事全文を読む→ピラミッドより10センチ高い墓ちょうど、そんな頃です。「コント55号」がレギュラー出演していた「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」(日本テレビ系・69年10月スタート)の放送作家だった河野洋さん(夫人は女優の藤田弓子さん)から、青島幸男さんを紹介...
記事全文を読む→豪邸に住み、外車を乗り回して、腕には何十万円もする時計──芸能人って、そういうイメージがあるようです。「欽ちゃんってどんな家に住んでるの?」とか「どんな車に乗ってるの?」って聞かれて、「小田原の近くのね、山の中にある小さな家」とか「国産の車...
記事全文を読む→廊下の隅に出された三面鏡おふたりが家を新築した時も遊びに行って、南田さんの女らしさに心を打たれました。エチケットとして寝室を見るのは遠慮したのですが、「欽ちゃんならいいよ」と、2人が言ってくれたので、ずうずうしく拝見することにしました。見て...
記事全文を読む→クイズ形式でユニークな人物を紹介するトークショー番組「特ダネ登場!?」(日本テレビ系)に、僕がレギュラー出演したのは1972年、31歳の時でした。その時、同じくレギュラー出演していたのが長門裕之さん、南田洋子さん御夫妻です。長門さんは父親が...
記事全文を読む→大輪が用意した作詞・東海林良、作曲・大野克夫、衣裳・早川タケジは「沢田チーム」の面々であり、ロック色の強い楽曲に仕上がった。ジャケットの「白いブラウスに視線を落とした表情」も、これまでにない写真だった。イメージはフランスの歌手であるジェーン...
記事全文を読む→見たことがない大粒の涙僕としては、「やっぱり明るい番組で、楽しそうにやってるのが弟さんもいちばん、喜ぶだろう」と、自分の番組「欽どこ!」に出演してもらうことにしました。その記者会見で、僕は記者の皆さんに「これからスーちゃんをよろしくお願いし...
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