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記事全文を読む→緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(24)「生き方が画面に出る」と自分を律し続けた
任侠映画の時代から活躍する監督・中島貞夫は、マキノ雅弘に師事したこともあり、高倉とのつきあいは古い。初めて監督として撮ったのは、村田英雄主演の「男の勝負」(66年、東映)だった。
「マキノが倒れちゃったから、僕が代わりに撮ることになって。当時、僕は京都で、健ちゃんは東京の撮影所だったけど、京都でも健ちゃんの評価は高かったんだよ」
時代劇を得意とする京都撮影所には、中村錦之助というスターがいた。高倉も「宮本武蔵 二刀流開眼」(63年、東映)など何作か共演。年齢は高倉のほうが上だが、役者の格は錦之助のほうが上回る。
そんな2人の共演で持ち上がった企画が「日本侠客伝」(64年、東映)だった。当初は錦之助が主演のはずだったが──、
「時代劇で過ごしてきた錦ちゃんは、極道の映画ということに抵抗がある。そこで健ちゃんが主演に代わったんだけど、そういう時代のタイミングにきちんと入り込めたのが健ちゃん。後の菅原文太が『仁義なき戦い』(73年、東映)でチャンスをつかんだのも同じことだ」
そして「日本侠客伝」は高倉の出世作となる大ヒットを記録。シリーズ化された以降の作品で、中島は脚本を何度か担当。京都の旅館に詰めて書いていると、そこに高倉がやって来る。
「健ちゃんは自分の役に対する愛着がすごい。だからホンを書いている僕らのそばで、自分のやりたいプランを熱っぽくしゃべり続けている。健ちゃんの思いどおりのドラマにはならないんだけど、あの場に来るのは彼くらいのもの」
中島は「あゝ同期の桜」(67年、東映)でメガホンを取り、監督と俳優として高倉と向き合う。終戦間近の日の「神風特攻隊」をテーマにした映画である。
ここで高倉は剣持大尉に扮したが、監督の中島と押し問答が続いた。松方弘樹や千葉真一ら若い役者陣は、特攻隊員として死地に赴く。高倉は、特攻という役柄ではない。
「明け方までコーヒーとタバコで、延々と話し合ったよ。健ちゃんは自分も特攻隊として飛び立っていきたいと言う。いや、飛び立つ者もつらいが、部隊に残る者もつらい。それを健ちゃんにやってほしいと何度も頼んだよ」
それがシナリオであり、配役である。だが高倉は、あくまで「高倉健の生き方として」を主張する。
「美空ひばりの相手役でくすぶっていた日々もそうだけど、健ちゃんは役柄が自分にハマらないとできないという性分。それは新東宝や松竹と渡り歩いて、メシが食えない苦労をしてきた文ちゃんと決定的に違う生き方だったね」
高倉は晩年も「生き方が画面に出る」と自分を律するように言い続けた。そのために役柄が限定され、作風が似てしまうようになっても、その一点において妥協しなかった。
人生と映画を、すべて「旅の途中」として重ねてきた高倉健の背中が、いつまでも沁みてくるようだ──。
<了>
アサ芸チョイス
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