社会

戊辰戦争で新政府軍に最後まで抵抗…榎本武揚が「江戸っ子の代表格」と呼ばれたワケ

 俗に「江戸っ子」という言葉がある。「江戸っ子」の概念は「三代続いて江戸生まれでなければならない」だと言われている。

 それには当てはまらないものの、後に「江戸っ子」の代表格とされた人物がいる。幕末から明治にかけての有名人のひとり、榎本武揚である。

 日本史ファンでなくても、その名前は知っているだろう。幕末に幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では蝦夷共和国の総裁となった。

 武揚は新撰組副長・土方歳三らと最後の最後まで明治新政府軍と戦ったが、函館戦争、いわゆる五稜郭の戦いに敗れて降伏。一時は投獄されたが、釈放後は明治新政府に仕えて外務大臣、文部大臣、海軍中将などを歴任した。

 武揚は西丸御徒目付・榎本武規の次男として天保7年(1836年)に、現在の台東区浅草橋付近にあった、通称・三味線堀の組屋敷で生まれた。この武規は元々、幕臣ではなかった。備後国(現在の広島県福山市)の生まれで、名を箱田源三郎(良助)といった。

 若い頃から学問、特に数学が好きで、日本地図を作った伊能忠敬の内弟子となり、測量を手伝っていた時期もあったという。

 学問を極めるために江戸に出てきた源三郎は、のちに御徒・榎本武兵衛が持っていた御家人株を買って、御徒・榎本武規になった。当時、跡継ぎのいない旗本株や御徒株は、養子になるという名目で内々に売買されていた。将軍にお目見えできる旗本株は1000両、お目見え以下の御家人=御徒株の相場は500両だった。

 家柄を金で買った武規だが、数学の素養があったことからトントン拍子に出世し、150俵の旗本格となった。

 息子の武揚は、エリートが集まる昌平坂に入学。その後、長崎海軍伝習所に入学し、修了後は江戸にある「築地軍艦操練所」の教授に。文久2年(1862年)にはオランダに留学して、国際法や船舶運用術、化学などを学んだ。慶応3年(1867年)に帰国すると100俵15人扶持の軍艦頭となり、和泉守を名乗るようになった。

 三河以来の譜代で、先祖代々、徳川家に使えていた「江戸っ子」の旗本、御家人には、戊辰戦争には加わらずに逃げ出す人間も多かった。その中で、父の生まれが幕臣ではなかった武揚が、最後の最後まで新政府軍に抵抗を試み、その心意気から「江戸っ子の代表格」とまで呼ばれるようになった。まさしく歴史の妙である。

(道嶋慶)

カテゴリー: 社会   タグ: , ,   この投稿のパーマリンク

SPECIAL

アサ芸チョイス:

    医者のはなしがよくわかる“診察室のツボ”<マイクロスリ―プ>意識はあっても脳は強制終了の状態!?

    338173

    昼間に居眠りをしてしまう─。もしかしたら「マイクロスリープ」かもしれない。これは日中、覚醒している時に数秒間眠ってしまう現象だ。瞬間的な睡眠のため、自身に眠ったという感覚はないが、その瞬間の脳波は覚醒時とは異なり、睡眠に入っている状態である…

    カテゴリー: 社会|タグ: , , , , |

    医者のはなしがよくわかる“診察室のツボ”<紫外線対策>目の角膜にダメージ 白内障の危険も!?

    337752

    日差しにも初夏の気配を感じるこれからの季節は「紫外線」に注意が必要だ。紫外線は4月から強まり、7月にピークを迎える。野外イベントなど外出する機会も増える時期でもあるので、万全の対策を心がけたい。中年以上の男性は「日焼けした肌こそ男らしさの象…

    カテゴリー: 社会|タグ: , , , , , |

    医者のはなしがよくわかる“診察室のツボ”<四十肩・五十肩>吊り革をつかむ時に肩が上がらない‥‥

    337241

    最近、肩が上がらない─。もしかしたら「四十肩・五十肩」かもしれない。これは肩の関節痛である肩関節周囲炎で、肩を高く上げたり水平に保つことが困難になる。40代で発症すれば「四十肩」、50代で発症すれば「五十肩」と年齢によって呼び名が変わるだけ…

    カテゴリー: 社会|タグ: , , |

注目キーワード

人気記事

1
新横綱・大の里の新たなライバルになるのは新入幕の「白鵬の弟子」
2
広島カープにまた「呪い」が降りかかる!野球誌がもたらした「まさかの大失速」悪夢の記憶
3
【珍事発生】プロ野球「球宴ファン投票」で中日ノミネート外選手がまさかの3位に!
4
橋本環奈に「すごい才能あり」伸びしろが怪しい女優業を辞めて「司会」に専念してみろ!
5
「あそこまでの天才は磯貝洋光しかいない」城彰二が驚愕したサッカー選手はなぜ消えたか