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江戸時代の初め、慶長から元和年間(1596年から1623年)にかけて、福岡県柳川地方出身の女性による、敵討ち事件が発生した。柳川・山門地方では唯一の敵討ち事件として、後世まで語り継がれている。
当時、柳川藩士の娘に、林操という16歳になる女性がいた。美形である上に性格がよく、しかも文武両道に秀でていたという。そんな操だけに、嫁のもらい手は引く手あまただったが、父の同役の息子である京都(みやこ)幾之助に輿入れすることになった。
評判の女性を嫁にもらうとあって、周囲の妬みはすさまじいものがあった。中でもかねてより操に思いを寄せて宮川右内が、嫉妬心から幾之助の殺害を計画。幾之助とその父である三左衛門が、福島(現在の八女市福島)にある福岡城を訪れた際に、屋島(現在の筑後市)の松原で待ち伏せた。そして親子ともども鉄砲で撃ち殺し、そのまま逃亡してしまった。
将来の夫を殺害された操は幾之助の無念を晴らすため、藩に仇討ちを願い出た。だが宮川は藩随一の武芸者として知られる存在で、そのままでは返り討ちに遭うのは目に見えており、周囲には反対の声が多かった。
諦めきれない操は男装して剣術の腕を磨き、名刀・来国光を手に、敵討ちの旅に出る。家を出る際には「見事に仇討ちができたら、この枝は必ず生い茂って大木になる」と観世音菩薩に念じて、柳の枝を逆さに地面に刺したという。
この逸話が後世、柳川町の柳町・綾小路の由来とされている。
操の敵討ちの旅は、柳川を出発して豊後(大分県)、豊前(福岡県)から本州に渡り、長門(山口県)、山陰道を回って現在の兵庫県や大阪府、京都府、北陸に及び、三河、尾張(東海地方)にまで達した。
そして諸国を巡ること10年。四国に渡り、ついに阿波の徳島城近くの鹿野ケ原で憎い敵に遭遇し、見事に討ち果たしたという。本懐を遂げて柳川に戻ったものの、仇討ちの許可を出してくれた主家の田中家は後継ぎがなく、断絶していた。
その後、操は出家して尼僧となって余生を過ごし、83歳で生涯を閉じた。墓は福岡県みやま市瀬高町の西念寺にあり、彼女の行動を称える碑が建立されている。
林操の仇討ちについては、江戸時代後期に成立した「南筑操之柳」に書かれている。烈女の執念はすさまじい。
(道嶋慶)
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