昭和を彩った大投手の中でも「長嶋キラー」と呼べる筆頭は、元大洋の平松政次氏(77)だろう。いかにミスターを苦しめたかは対戦成績で明らかだが、相対するマウンドは余裕綽々とはいかなかった。むしろ、その内心は畏怖の念を抱くばかりだったようで‥‥。
平松はもともと長嶋に魅了された野球少年の1人。初めて対面したのは、岡山東商3年の秋だった。
「岡山で巨人対阪神のオープン戦をやっていました。同級生の親が経営している旅館を巨人が宿舎にしていて、その同級生が巨人ファンの私に知らせてくれたんです。聞いてすぐに訪ねてみると、同じセンバツ優勝投手のよしみで、柴田勲さんが長嶋さんや王貞治さんのいる部屋に案内してくれました。長嶋さんは、私が持参した色紙に快くサインを書いてくださいましたね。それも友人らの分も含めて10枚ほど。何を話したかって? もう恐れ多くて‥‥、お礼を言うのがやっとでした」
憧れをより強固にしたのは間違いない。同年のドラフトで中日に指名されるも、巨人入りを望んで入団拒否。ところが社会人野球の日本石油を経て入団したのは、巨人ではなく大洋だった。くしくも入団して最初の背番号は「3」。特別な想いが込められていたのだろうか。
「(1966年のドラフトは第1次と第2次に分けて行われ、後者で指名されて)8月に入団したので、選べる背番号が限られていました。残っていたのは、3、13、60台のみ。60以上の背番号は2軍の選手が付けていて、13も不吉なナンバーでしょ? 残った3を選択しただけなんです。長嶋さんに寄せたわけではありません(笑)」
のちに通算201勝を挙げるレジェンド右腕にも、ふがいない若手時代があった。そこで壁になったのが他ならぬ長嶋だった。
「最初の対戦から圧倒されてしまいました。ネクストバッターズサークルにいる姿を見て、『うわ〜、長嶋さんだ‥‥』と、これから勝負するとは思えないほど浮き足立っていた記憶があります。とにかく、1〜2年目の私では相手になりませんでした。それを象徴していたのが、2年目に川崎球場で打たれた場外ホームラン。当時はまだストレート主体で、たまにカーブを投げるスタイルでした。私の2軍レベルのカーブに、『こんなボール簡単に打っちゃうよ。ファンとか関係ない』とでも宣告されたような衝撃を受けた。この時、プロでやっていく覚悟が決まりました」
一念発起して磨いたのが、代名詞ともなる「カミソリシュート」。現役通算打率3割超の長嶋も打ちあぐねた魔球である。対平松の通算打率が1割9分3厘というのが論より証拠。しかし、手玉に取っていた意識は本人にまったくなかったようで、
「晩年まで怖いバッターという印象は変わりませんでした。1球1球何が何でも打たれたらいけないと、必死で投げていたんですから。結果的に抑えたとしても、勝負に勝ったと思えたことは一度もありません。振り返れば、70年に巨人戦連続無失点記録を33イニングで止められたのも、長嶋さんのホームランでした」
右打者にとって、インコースに食い込んでくるシュートは厄介極まりない変化球。長嶋もただ手をこまねいているだけではなかったのである。
「私がボールをリリースする瞬間に、それまで長く持っていたバットを短く持ちかえていたのが頭の中に映像として残っています。長嶋さんの平松対策だったのでしょう。それでも、打席に入ってすぐに短く持つことはありませんでした。のちに200勝記念パーティーで、『巨人の4番が最初からバットを短く持ったら、ファンが許しません』と語っていたように、己の美学を貫いていました。もしかしたら、アウトコースにストレートを投げてしまえば、簡単に打ちとれた打席もあったかもしれません。でも、私も長嶋さんを迎え撃つように、シュートばかり投げていました」
プロ3年目には嬉しい“共演”も果たしている。
「初めて出場したオールスターで、一塁、三塁をONに守ってもらえたのは夢のような時間でした。甲子園球場のマウンドに立つ私に長嶋さんが『さぁ、平松いくよ〜』と声をかけてくれたんです。今でも昨日のことのように思い出せます。ちなみに、〝カミソリシュート〟と命名してくれたのも長嶋さんでした。本当に感謝の言葉しかありません」
憧れから好敵手へ。いつしか2人は、互いを称え合う存在になっていたようだ。