先の平松氏とは打って変わり、長嶋を不得手にしていたのが、元中日の権藤博氏(86)だ。いまだ破られない492回1/3投球回で沢村賞を戴冠したルーキーイヤーからこっぴどくやられた。あの伝家の宝刀を打ち崩した、天才的打撃センスにアッパレを贈る。
「天真爛漫で雲の上の存在でした」
こう稀代のバットマンを振り返る権藤。プロ1年目の初登板が巨人戦だった。初対戦の記憶は、今でも色あせない。
「『3番サード長嶋』というアナウンスを耳にするなり、『これが天下の長嶋か‥‥』と思いました。投げたらガーンと、レフトフェンス上段に直撃するツーベースを打たれた。わずか1㌢でも打球が高かったら、フェンスオーバーの当たり。なんとか9回に1点を失うまで無失点で踏ん張った試合でしたが、長嶋さんの存在感は私の心に強く刻み込まれました」
プロ1年目に35勝19敗、防御率1.70、310奪三振を記録。奪三振王のタイトルを獲得したにもかかわらず、長嶋からは一度も三振を奪えなかった。そればかりか、対戦打率4割4分8厘とカモにされていたのである。一番の原因は、長嶋の驚異的な対応力にあった。大きく縦に落ちる魔球・ドロップカーブも、ヒットゾーンに飛ばしてしまうのだ。
「インコースにカーブを投げると、避けて尻もちをつきながら、アンパイアのストライク判定に頭をかいているんです。ところが、もう一度カーブを投げると、右手1本でバットに当ててライト線の長打コースにしてしまう。一見すると“逃げ腰”にも見えるフォームですけど、何度やってもファーストやサードの頭の上を越えてポテンと落とされてしまう。完全に体は開いて、顔も天井を向いているのに‥‥。その一方で、ド真ん中の失投が内野フライになることもしばしば。かと言って、わざわざド真ん中に投げるわけにもいきません。当時は、どうやったら抑えられるか頭を抱えてばかりでした」
相手を幻惑する陽動作戦だったのか。はたまた、天然だったのか。その真意を今さら知る由もないが、試合中に長嶋からフレンドリーに声をかけられることも珍しくなかった。
「例えば、ファウルを打って一塁ベース付近からバッターボックスに戻る時に、わざわざマウンド付近を通って『ゴンちゃん、頑張れよ!』なんて言ってくるんです。当時は監督・コーチやチームメイトから『権藤』や『ゴン』と呼ばれるばかりで、『ゴンちゃん』なんて呼ぶのは長嶋さんぐらいでした。あと、打たれた次の日の新幹線でも『ゴンちゃん、疲れは取れたかい?』なんて絡まれることも。投げた翌日が疲れてないはずないのに(笑)。変な駆け引きではなかったと思います。いずれにしても、長嶋さんにとっては私が好きな投手だったのでしょう。テンポよくガンガン投げて、インコースにシュートを投げることもありませんでしたからね」
権藤は98年、横浜の監督に就任。在職3年間は指揮官としても長嶋と相まみえた。
「代打やリリーフをどんどん投入して、ゲームを動かしていたのが印象に残っています。長嶋さんの上をいったのは98 年に優勝した時だけ。それも私の手柄というより、選手たちの功績です」
99年のオールスターでは、監督とコーチとして共闘も果たしている。
「私が監督で、前年3位の巨人を率いていた長嶋さんと前年2位の中日を率いていた星野仙一がコーチでした。岡山県倉敷市で開催された第3戦目に、ちょっとした事件がありました。私が監督室に入ろうとすると、内側から鍵がかかっていた。どうも先客がいたようなんです。ノックして誰がいるのか尋ねてみると、『ゴンちゃん、部屋借りてるよ〜』と長嶋さんが出てきた。監督室は個室だけど、コーチ室は相部屋でした。地元出身で後援者が代わる代わる訪ねてくる、星野と同室では居心地が悪かったのかもしれません。結局、監督室を長嶋さんにお譲りして、私は試合までダグアウトで過ごしました」
いつでも屈託なく、燦々と日本球界を照らす、太陽のような存在だった。
「最後にお会いしたのは4〜5年前の宮崎キャンプでした。『私のことを覚えていますか?』と挨拶がてら尋ねてみると『覚えているよ! ゴンちゃん〜』と答えてくれた、甲高い声は忘れられません。長嶋さんのことだから、何度でも復活することを信じていました。それだけに、突然の訃報を信じられません」
全国のファンを魅了したパフォーマンスの数々は、直接対戦した投手たちにも生涯にわたる尊敬の念を植え付けてきたのである。