数々のミスター伝説の中でも幾度となく語られるのが、79年に静岡・伊東市で行われた秋季キャンプ、通称「地獄の伊東キャンプ」だ。想像を絶する過酷なトレーニングに耐えた角盈男氏が回顧する。
「投手だと午前中は投げるだけ、午後は走るだけ。野手の場合は午前中打つだけ、午後は守るだけ、みたいな。個人の能力を上げることを重視してチームプレーの練習は一切なし。投手は1日300〜400球は投げてましたよ。『壊れたら東京に帰れ。翌年2月のキャンプまでに治せばいい』という指令で、練習は夕方4〜5時まで。宿舎に帰ってもお酒は禁止だった。選手間で『養命酒はいいのか?』という議論になりましたけどね」
参加したメンバーは江川卓、鹿取義隆、中畑清など若手精鋭18人。しかし、故障離脱者はゼロ。同じく地獄キャンプを体感した西本聖氏はこう証言する。
「夕方練習が終わってホテルに帰っても、30分以上経たないとユニホームを脱ぐ気にならなかったですね。それぐらい疲労困憊だったんですよ。寝床についたらすぐに眠れました」
制球難の克服が課題だった角氏。とにかく球数を投げることが日課だった。
「コーチからは『ヒジをとにかく上げろ。直す時は極端にやらなきゃダメだ』と言われて。実際にヒジを上げて投げると、70〜80球ぐらいを過ぎると辛くなる。1日に300球ぐらい放っていたので、必然的に腕の振りが横になってきた。これだったら何球でも放れるし、投げるボールに責任持てるなと思って」
投球フォーム改造に活路を見出した角氏は、オーバースローからサイドスロー転向を決意。その可否は監督である長嶋に委ねられた。
「『いいんじゃないの〜。僕が全責任取る』と軽く言われましたね」
引退後、角氏は長嶋に伊東キャンプの構想を聞いたことがあるという。
「キャンプの目的は1番バッター、4番バッター、抑えを確立することだったと言ってましたね。結果、1番は松本匡史さん、4番は中畑さん、抑えは僕になりました。後づけかもしれませんけど」
それまで秋季キャンプという慣習はなかった。伊東キャンプを嚆矢として、プロ野球の秋季キャンプの歴史がスタートしたのだ。
「伊東キャンプに参加した選手で作られた同窓会『伊東会』というのがあって、年一回集まって長嶋さんと食事をするんです。みんな戦友という意識がありますよ。それぞれ成長しましたから」(前出・西本氏)
キャンプの翌々年、角は20セーブの最優秀救援投手賞、西本は18勝で沢村賞を獲得。地獄のキャンプは見事に結実したのだ。