80年の“解任”から93年の監督復帰まで、ミスターの活躍の舞台は野球解説などの球界だけにとどまらなかった。その唯一無二の天心爛漫なキャラクターを生かし、テレビ出演やビッグイベントのアンバサダーなど、マルチタレントとして引っ張りだこに。
テレビ番組の企画でアフリカのナイロビを訪れて野生のキリンを見つけて「あの背の高いのはキリンあたりかな?」など、独特のワードセンスはお茶の間を沸かせた。
浪人時代に長嶋の番記者を務めたスポーツライターの猪狩雷太氏は振り返る。
「ワールドシリーズ中継の解説をするために、ニューヨークに入ったミスターに張り付いたことがあります。当時は大洋の監督を引き受けるかどうかで注目されていた頃。『ニューヨークから君はどうやって帰るの?』と聞かれ、直通ではなくロス経由のチケットだと話すと、『ワンバウンドするんだね』と」
日本ハムから巨人に移籍した河野博文は「ゲンちゃん」、同じく西武から来た大久保博元は「ぶーちゃん」など、選手を愛称で呼んだミスターだが、
「長嶋さんはアダ名を付ける名人でした。秀逸なものでは小柄な番記者に『カンボジアの皇太子』、個性的な風貌の番記者には『アパッチ』だったり」(前出・猪狩氏)
あまり浸透しなかったが、高橋由伸を「ウルフ」と名付けたことも‥‥。古くから親交があるせんだみつお氏がミスター語録を述懐する。
「長嶋さんはゴルフが大好きでね。浪人時代に仲よくなって月に3回はプレーしました。打つ順番を決める時、4人で円陣囲んでティーを投げて、ティーの先っぽが向いた人から打っていく。そしたら長嶋さん、ティーじゃなくて、ポケットから出した100円玉を投げた。丸いから先っぽも何もない。誰から打っていいのかわからないんですよ」
グリーンでOBを打てば「ファール!」と脳内変換してしまう長嶋ワールドが全開。せんだ氏が続ける。
「長嶋さんはプロゴルファー並みにうまいから、僕はハンディキャップをいっぱいもらうんだけど、それでわずか1打差で僕が勝ったんですよ。『せんちゃん、うまくなりましたねー』『いやいやハンデをいっぱいもらったからです』『勝ちは勝ちですよー。私、今日はせんちゃんに頭が上がります』だって(笑)」
高度成長期には下駄箱や銭湯の脱衣所などの番号「3」が取り合いになったものだ。本人も数字にこだわりがあったのだろうか?
「長嶋さんは昭和33年に巨人に入団して現役時代の背番号は3。第二次政権、最初の背番号は33番だった。だから、聞いたんですよ。『長嶋さん、やっぱり3にご縁があるから好きな数字は3ですよね?』って。そしたら『うーん、そうですね。せんちゃんが言った通り好きな数字はと聞かれれば、ラッキー7の3ですね』って。いまだに意味わかんないんですけど」(せんだ氏)
徳光正行氏は長嶋語録の代名詞となった「鯖は魚へんにブルー」の真相を語る。
「あの言葉が出たのは、日本シリーズ前の集中キャンプでみんながピリピリしてる中で長嶋さんもけっこう難しい話をしていた。記者が恐る恐る近づいて長嶋さんにインタビューしようとしたら、『いやー、鯖がおいしい季節みたいだね。鯖ってどういう漢字だっけ?』突然鯖の話を始めた。全然野球と関係ない話をして、その場を和ませようとしたんです」
いつ何時でも誰が相手でもミスターは一流のエンターテイナーだったのだ。