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記事全文を読む→「プロレスVS格闘技」大戦争〈髙田の格闘技人生を変えたグレイシーの衝撃〉
1980年代、ショー的な要素を排除したUWFがプロレスの価値観を揺さぶったが、90年代にプロレス界に衝撃を与えたのは、93年11月12日に米コロラド州デンバーで初開催された“何でもあり”の格闘技大会UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)である。
日本では無名のグレイシー柔術のホイス・グレイシーが、パンクラスの外国人エースのケン・ウェイン・シャムロック、UWFで前田日明と死闘を演じたジェラルド・ゴルドーを撃破して優勝したから、プロレス・格闘技ファンはもちろん、プロレス団体の関係者は騒然となった。
プロレス界がUFC、グレイシー柔術とどういうスタンスを取るのかが注目されたが、そこで動いたのは、かつてのアントニオ猪木を踏襲するように“最強”を掲げる髙田延彦率いるUWFインターナショナルだ。
水面下でホイス・グレイシーと交渉をスタートさせたものの、金銭面やルールで折り合いがつかない中で髙田が目を付けたのが、ホイスの兄・ヒクソンだった。
ホイスはグレイシー柔術の総帥エリオ・グレイシーの六男で、ヒクソンは三男。髙田はホイスが「兄のヒクソンは私より10倍も強い」と語っているインタビュー映像を見て、ヒクソンに興味を持ったという。
ヒクソンは94年7月29日に東京ベイNKホールで開催された「バーリ・トゥード94ジャパン・オープン」に初来日。和術慧舟会創始者の西良典、詠春拳のダビット・レビキ、アポロジム所属でUKF・USライトヘビー級王者バド・スミスを撃破して優勝。相手に馬乗りになるマウント・ポジションから顔面に容赦なくパンチを叩き込む姿は、日本の格闘技ファンを驚愕させた。
この大会のビデオを観て髙田の腹は決まった。ターゲットをホイスからヒクソンに変更。交渉は難航したが、同年10月8日の日本武道館でUインターの鈴木健取締役が「逃げるな、グレイシー!」とぶち上げ、11.30日本武道館では「安生洋二をグレイシー潰しのヒットマンとして正式に送り込むことにしました」と宣言した。
12月7日、ロサンゼルス郊外の「ヒクソン・グレイシー柔術アカデミー」を訪れた安生はヒクソンと門下生に囲まれ、ヒクソンにマウント・ポジションから顔面にパンチ、右肘を浴びせられ、胴締めスリーパーを極められた。最後はスリーパーのダメージで全身を痙攣させる安生の背中をヒクソンが踏みつけ、決闘は6分45秒で終わった。
「あれはまったくの誤算。リングでの殴り込み宣言は話題作りのスタートであって、外国人招聘の責任者でもある安生が契約書類を持って直接交渉に行ったのが真相です。普通に考えても、非公開の道場でやるよりも興行として成り立たせなきゃもったいない。そこでやってしまう安生はやっぱり選手なんですよ」(鈴木)
裏事情はどうあれ、道場破りで惨敗を喫した安生はプロレスファンに戦犯扱いされ、“最強”を掲げていたUインターの人気も暴落。95年秋には新日本プロレスとの対抗戦に舵を切ったものの、96年末には解散に追い込まれてしまった。
一方、安生を返り討ちにして名を上げたヒクソンは、95年4.20日本武道館での「バーリ・トゥード・ファイティング・チャンピオンシップⅡジャパン・オープン95」に再来日。リングスの山本宜久、スーパ―タイガージム館林の木村浩一郎、当時の修斗ウェルター級王者・中井祐樹にいずれもチョーク・スリーパーで勝利して大会連覇を達成。
まさに日本プロレス界、日本格闘技界の黒船となったヒクソンとの対戦実現に執念を燃やしたのは、Uインターの看板を下ろした髙田だ。Uインターの代表取締役から一介の選手に戻ったことで、むしろヒクソン戦は前進した。ヒクソンは中立な主催者による試合にこだわっていたからだ。
中立な立場として髙田とヒクソンを仲介したのは、初期PRIDEの実行委員会KRS(格闘技レボリューション・スピリッツ)に設立から関わっていた東海テレビ事業部の榊原信行。榊原はのちにDSE代表取締役としてPRIDE、ハッスルを運営し、現在はRIZINを運営するドリームファクトリーワールドワイド代表取締役である。
97年10月11日、東京ドームで「PRIDE」が初開催され、髙田VSヒクソンが遂に実現した。その後、格闘技ブームを起こす「PRIDE」は、この一戦を実現させるために生まれた総合格闘技イベントだった。
注目の一戦は1ラウンド4分47秒、ヒクソンが腕ひしぎ十字固めで完勝。1年後の98年10.11東京ドームの「PRIDE4」でもヒクソンが9分30秒、腕ひしぎ十字固めで勝利した。
髙田はヒクソン戦以降、プロレスラーではなく総合格闘家として活動を続け、02年11.24東京ドームの「PRIDE23」で田村潔司にKO負けを喫して現役人生をまっとうした。
一方、ヒクソンは00年5.26東京ドームでの「コロシアム2000」で船木誠勝にチョーク・スリーパーで勝利したのが結果的に公の場のラストマッチに。一度も負けることなく、無敵のまま引退している。
文・小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング」編集長として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)などがある。
写真・山内猛
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