-
-
人気記事
- 1
- 岡田監督よく言った!合計43得点のオールスター戦が「史上最もつまらなかった」とファンが怒った当然の理由
- 2
- 巨人・阿部慎之助監督のエンドラン外し「捕手の勘だった」発言に江川卓が「それはない」異論のワケ
- 3
- 認知症の蛭子能収「太川陽介とバス旅」は忘れてもボートレース場で「選手解説」ギャンブラー魂
- 4
- レジェンドOBなのになぜ!ド低迷の川崎フロンターレ「中村憲剛」新監督案をサポーターが拒絶
- 5
- 【衝撃事実】見たのは誰だ!トランプ銃撃犯は「11分間ドローンでライブ配信」していた
- 6
- 桃田賢斗「1回で10万円ぐらい持っていった」闇カジノ賭博で一発アウト!/スポーツ界を揺るがせた「あの大問題発言」
- 7
- 「ポケットにナイフを忍ばせてタクシーに」サッカー・北澤豪がブラジルで「あんぱん」を探し求めたウソのようなホントの話
- 8
- マジで!? 千葉・小湊鐵道「最終電車が14:40発」に早まった「深刻すぎる理由」
- 9
- 【ヤバイぞコロナ】5類移行後の「最大波」が襲来!過去の免疫をいとも簡単にすり抜ける「新変異株」の正体
- 10
- ロングスローだけじゃない!J1首位・町田ゼルビア「速攻マネージメント」にアンチが黙り始めた
-
急上昇!話題の記事(アサジョ)
-
働く男のトレンド情報(アサ芸Biz)
-
-
最新号 / アサヒ芸能関連リンク
-
-
厳選!おもしろネタ(アサジョ)
-
最新記事
-
アーカイブ
-
美食と酒の悦楽探究(食楽web)
本能寺の変
社会
本能寺の変で織田信長と運命を共にした男/実在した「忍者」の禁断秘史(6)
天正十年(1582年)に起きた本能寺の変で、織田信長とともに運命を共にしたといわれる甲賀忍者がいる。伴太郎左衛門尉資家である。太郎左衛門は近江国甲賀郡(現・滋賀県甲賀市水口町)の郷士の出で、当初は主に戦国大名の六角氏から仕事を請け負っていた…
社会
毛利輝元のお気に入りに…本能寺の変が人生を変えたキリシタン大名
敵将・毛利輝元に人質として差し出されながら気に入られ、その姓まで賜った──。安土桃山時代から江戸前期にかけて活躍した武将が、毛利高政だ。キリスト教を信仰して日本から追放された高山右近らと同じキリシタン大名だったが、信仰と棄教を繰り返したため…
社会
信長のパワハラが始まり…本能寺の変を引き起こしたのは「社長秘書」の美女だった
本能寺の変は、天正10年(1582年)6月2日、戦国時代の英雄・織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって倒されたもの…ということは誰でも知っている。パワハラが主な要因だったという話もあるが、事実はいまだに解明されていない。その中で、ある美女…
芸能
来年公開映画で…木村拓哉と織田信長「家紋・年齢・本能寺の変」に見る驚くべき共通点
木村拓哉と綾瀬はるかが6月21日、都内で行われた東映70周年記念映画「THELEGEND&BUTTERFLY」の発表会見に出席。木村と信長の共通点が明らかになり、早くも話題を呼んでいる。スポーツ紙記者が解説する。「木村演じるのは『大うつけ』…
社会
かの偉人たちに学ぶ「歴史的健康術」(4)<服部半蔵>視力アップのツボ刺激
映画や小説、漫画にも数多く登場して、忍者ブームの火付け役となったのは服部半蔵だ。忍者の生き様は過酷だが、食事から運動まで理にかなった最高の健康生活でもあったようだ。伊賀の忍者、服部半蔵を一躍有名にしたのが、1582年6月に起こった本能寺の変…
社会
明智光秀の信長討伐は「氏族再興を阻む外交への不満」が原因(2)光秀の「前半生」は苦難の連続だった
そんな両者の関係が急転直下し、謀反につながっていった理由は、信長の外交政策にあったという。唐入り、すなわち中国(当時は明)への進出である。変の3年前、1579年に、イエズス会アジア地区責任者の巡察師・ヴァリニャーニが来日し、少なくとも4回、…
社会
明智光秀の信長討伐は「氏族再興を阻む外交への不満」が原因(1)怨嗟が謀反の原因ではない?
2020年のNHK大河ドラマの主人公に決まった明智光秀。主君の織田信長を本能寺の変で討った謀反人というイメージが強い光秀を主役に据えた意外性が、歴史ファンの間で話題となっている。そんな中、光秀の子孫が、これまで不明とされてきた前半生を解明す…
事件
歴史に秘められたニッポンの「陰謀論」を解け!(2)戦国武将たちの「俗説」を問う
公式な記録資料がなく、子孫の思惑によって「描かれる」ことも多い戦国武将の合戦絵巻。研究家たちが、歴史を動かした謀略の裏側を論破する。たびたび映画やドラマの題材になり、戦国マニアならずとも関心が高いのが「本能寺の変」(1582年)であろう。京…
社会
明智光秀「本能寺の変は室町幕府再興」説に子孫が大反論(2)義昭との関係を示す証拠は…
ここで、今一度、「本能寺の変」前後の情勢をひもといてみよう。足利義昭は、天正元(1573)年に、信長によって京都から追放されたあと、天正5年頃までは諸国の大名に自身の上洛について積極的に働きかけているが、そのあとは援護を毛利氏一本にしぼった…
社会
“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(3)明智姓を名乗ってるのはほぼいない
くしくも今年は、NHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」でも、春風亭小朝が演じる光秀が登場。「日の本に王は2人いらぬ」と断じる信長に脅威を感じた光秀が朝廷のために立ち上がるという本能寺の変の動機を語っていたが‥‥。明智氏の目にはどう映っていたのか…
カテゴリー: 社会
タグ: 明智光秀, 春風亭小朝, 本能寺の変, 週刊アサヒ芸能 2014年 9/25号
社会
“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(2)長宗我部征伐で身の危険が…
これまで本能寺の変について史実とされていたのは、信長の家臣として仕えていた光秀が、信長を恨むようになり、天下取りの野望を抱き謀反を企てたというものだった。そして、決起直前になって光秀は重臣に打ち明け、「敵は本能寺にあり」と号令を出し、信長討…
カテゴリー: 社会
タグ: 明智光秀, 本能寺の変, 週刊アサヒ芸能 2014年 9/25号, 長宗我部元親
社会
“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(1)信長による家康討ちが発端
1582年に発生した日本の歴史上、最大のクーデターと称される「本能寺の変」。なぜ家臣の明智光秀は主君の織田信長を討ったのか‥‥。その動機について、「信長を恨んだ末の謀反だった」というのが定説だったが、光秀の子孫がこれまでの議論に一石を投じた…