68歳になった今も、電流爆破デスマッチを売り物にしている大仁田厚。左膝蓋骨複雑骨折(膝の皿が5つに割れる重傷)が完治せず、1985年1月3日に27歳の若さで全日本プロレスを引退したが、89年10月にFMWを旗揚げした後にデスマッチ路線で&l...
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元号が平成に変わる前年の1988年(昭和63年)、プロレス界は一足先に新時代に突入した。前田日明が旗揚げした新生UWFが社会現象と言ってもいいほどの大ブームになったのだ。前田は84年3月に新日本プロレスを飛び出して旧UWFの旗揚げに参加。旧...
記事全文を読む→1986年春から88年春まで2年間続いた新日本プロレスとUWFの対抗戦はファンを熱狂させるも、アントニオ猪木と前田日明の頂上対決は遂に実現しなかった。新日本とUWFの闘いは、いつプロレスの範疇を超えてもおかしくない緊張感が魅力だったが、最終...
記事全文を読む→1980年代後半から90年代初頭にかけて、日本プロレス界はUWFブームに沸いた。見せる要素を排除して打撃と関節技で決着をつけるスタイルは、従来のプロレスに物足りなさを感じていたファンから「これぞ真剣勝負!」と絶賛され、新日本プロレスも旧ソビ...
記事全文を読む→1990年代後半から2000年代初頭にかけて、新日本プロレスはオーナーのアントニオ猪木の介入によって格闘技路線にシフトしていったが、それに反発したのが現場責任者の長州力だ。「もう僕は会長(猪木)と一緒にやっていくっていうものには足が出ていか...
記事全文を読む→先週に続いて、今週も「ヤング龍二」の続きを。小学6年生の時、学校の行事で合唱コンクールが開催されることになったんです。合唱コンクールは授業ではありませんので、放課後にみんなで練習しなきゃいけません。当時、僕は落合学院という進学塾に通っていま...
記事全文を読む→今、日本全国でクマ被害が急増して深刻な問題になっているが、かつて“クマ殺し”の異名で格闘技ファンの注目を浴びたのが、極真空手コネチカット支部に所属していたウィリー・ウィリアムスである。ウィリーの名前が知れ渡ったのは1976年12...
記事全文を読む→40~50年前の記憶を辿りながら、「ヤング龍二」について語ろうと思います。生まれたのは東京・武蔵野市の武蔵境です。4歳の時、僕は入園を予定していた幼稚園を目の前にして、「ここに行くのは絶対に嫌だーーッ」と、尋常じゃない猛抵抗をしたみたいで、...
記事全文を読む→1976年6月26日、日本武道館で行われたプロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦により、アントニオ猪木の名前は全世界に知られるようになった。猪木のもとには世界中から挑戦状が殺到。77年4月に「我...
記事全文を読む→1976年6月26日、日本武道館で行われたアントニオ猪木とプロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者であり、プロスポーツ界のスーパースターだったモハメド・アリの異種格闘技戦は全世界から注目を浴びたが、まったく嚙み合わないまま15ラウン...
記事全文を読む→プロレスVS格闘技の最大の戦いは1976年6月26日、日本武道館で実現したアントニオ猪木とプロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリの格闘技世界一決定戦である。「今世紀最大のスーパーファイト」と謳われた一戦は、全米170カ所、カナダ15カ...
記事全文を読む→─今、天龍プロジェクトの大会に車イスでファンの前に出ていますが、そこに思うところはありますか?天龍それは今の俺のエネルギー源ですよね。人前に出ていけば「シャキッとしなきゃいけない俺」っていうのが芽生えるし、話してることによって、何かを模索し...
記事全文を読む→─入院中の9月30日に、親友の三遊亭円楽さんが亡くなりました。天龍楽ちゃんは銀座でお金を使って、羽振りのいいとこ見せて、自分の弟子たちが気持ちを鼓舞できるように振る舞っていた。自分の命を縮めて上に立ってやってたんだなとつくづく思いますね。俺...
記事全文を読む→─「滑舌が悪い」ということで引っ張りダコになった時期もありました。天龍あれはね、俺が土台を築いたところで長州力にそのまんま持っていかれたからね(苦笑)。─それでも17年には、娘さんの紋奈さんが結婚されるなど、公私ともに順調だったと思います。...
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