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記事全文を読む→歴代総理の胆力「羽田孜」(2)田中角栄いわく「ワシが育てる」
羽田は「二世議員」ながら、当初は政治の世界に入る気はなかった。成城大学を卒業後「小田急バス」に入り、本社の観光課係長などを経て、企画調査室課長で退職した。
この間の10年のサラリーマン生活で、羽田が企画した文学ゆかりの地を巡る観光バスによる「文学散歩ツアー」は、同社の“ヒット企画”となっている。こうしたなかで、のちに政界に入っても変わらなかった「庶民感覚」が育まれたと言ってよかったようだ。
政界入りは、代議士だった父親の病気による引退によるものだった。羽田は望まなかったものの、地盤を継がざるを得ない政治家の家に生まれた宿命であった。
昭和44(1969)年12月の総選挙に初出馬、当選を飾ると、自民党佐藤(栄作)派に入った。このときの選挙を仕切ったのが、佐藤派幹部で幹事長の田中角栄だった。時に、小沢一郎も同期当選をした。当選してきた二人に、田中は言った。
「この二人は、ワシが育てる」
佐藤派のあとは、やがて田中角栄が継ぐことになるが、羽田は一貫して「農政」を勉強した。生産者、消費者の双方をにらみながらのバランス感覚にすぐれ、「羽田農政」とし自民党内の一角を占めた。第2次中曽根(康弘)内閣、引き続いての竹下(登)内閣で農水相を務め、その後も蔵相、外相のポストも踏んでいる。また、竹下派では、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、梶山静六、渡部恒三、奥田敬和とともに「七奉行」と言われた“期待の星”でもあった。
二世代議士が総理になったのは、その時点で羽田は芦田均、鳩山一郎、宮澤喜一に続く4人目だったが、以降、こうした“傾向”が顕著となっている。
しかし、そうした二世トップリーダーに共通するのは、部下からの「畏怖」が物足りず、政権が苦境に立ったときの「ねばり」がないということもある。そのあたりが、いわゆる「叩き上げ」の議員と大きく違う点である。「叩き上げ」は、時には危ない橋を渡りながら手に入れたものだけに、ねばりにねばるのが常なのだ。
羽田が小沢らとともに竹下派を割り、自民党を離脱したとき、同派領袖の竹下登はこう嘆いたのだった。
「羽田はあんなに軽かったのか」
■羽田孜の略歴
昭和10(1935)年8月24日、長野県生まれ。成城大学卒業後、小田急バス入社。昭和44(1969)年12月、衆議院議員初当選。新生党結成。平成6(1994)年4月、羽田連立内閣組織。総理就任時58歳。総辞職後、民主党に参加。平成29(2017)年、8月28日、老衰のため死去。享年82。
総理大臣歴:第80代 1994年4月28日~1994年6月30日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。
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