巨人監督3年目の王貞治は1986年のシーズンが終わると、無念の思いを嚙みしめて球団に「進退伺」を提出した。
優勝した新監督・阿南準郎率いる広島に勝ち星数で上回りながら、勝率3厘差でペナントを逃したのだ。
王は言った。
「広島は強かった。ウチも75勝したけれど、2番目は2番目。しかし選手に優勝の喜びを味わわせてやれなかったのは僕の責任です」
命取りとなったのは10月7日、神宮球場でのヤクルト26回戦。巨人が残り2試合に勝てば、広島が残り5試合で1敗でもすれば王巨人の初優勝だった。
巨 0 0 0 0 0 2 0 0 0=2
ヤ 0 1 0 0 0 2 0 0 ×=3
試合前の時点で巨人は8連勝中の首位。ヤクルトは巨人に26.5ゲーム差の大差で、断トツの最下位だった。
巨人の先発は若きエース・槙原寛己。ヤクルトは高野光だった。この年の槙原はヤクルト戦に4試合登板して3勝0敗、失点1だった。
ヤクルトは2回に1死一、三塁から池山隆寛の内野安打で1点を先制した。
一方、巨人はプレッシャーか、5回までに3個の四球を選んでいたが、無安打でチャンスらしいチャンスを作れなかった。
巨人の重くて湿り切っていた雰囲気をきれいに振り払ったのがウォーレン・クロマティだった。
6回2死三塁。クロマティが高野の初球、カーブを捉えた。打球は左翼席で弾む逆転の37号2ランとなった。王は思った。
「もう、こっちのものだ」
神宮を埋めた巨人ファンはバンザイの音頭を取るクロマティに合わせてバンザイ、バンザイを繰り返した。
しかし、舞台は数分後にものの見事に暗転した。その裏、槙原は1死からレオン・リーを追い込みながら四球を与えた。
迎えた打者はマーク・ブロハードだ。メジャー通算6年間で25本塁打、打率2割5分9厘の成績を残して、この年からヤクルトの一員になっていた。
9月と10月の巨人戦では13打数2安打だった。5月以降、本塁打はなかった。
1球目はボール、そして2球目は149キロの直球‥‥内角に放ったはずが微妙に真ん中へ。わずかに甘くなった。
ブロハードが振り抜くと打球は巨人ファンが陣取る左翼席に落ち、槙原が崩れ落ちた。左翼席が静まり返った。ペナントを左右する一発となった。
巨人は7回から登板した荒木大輔に完全沈黙し、結局、たった2安打で敗れた。首位から陥落。広島のマジックは3となった。 ブロハードは来季に向けて必死だった。契約続行条件の1つ、20本塁打はクリアした(21本)が、三振数(104個)が多くて粗い打撃がネックとなっていた。
この年の巨人をけん引し、大車輪の働きをしたのは、3年目のクロマティだった。
5日前の10月2日、神宮でのヤクルト24回戦。4点をリードした6回表1死の出来事だった。
先発の高野は警戒して厳しく攻めた。カウント2-2からの6球目、手元が狂った。ガツン。145キロの速球がクロマティのヘルメットを直撃した。
右側頭部を両手で抱え込んで、グラウンドを転げ回った。球場が騒然となった。
救急車で近くの慶応病院に運ばれた。検査の結果、脳やその他の異常は認められず、翌日には退院できた。医師は言った。
「今日だけは休んだ方がいい」
だが、クロマティは「私がチームを引っ張っている。ベンチ入りしたい。バットは振れなくてもチアリーダーになれる」と返した。
自宅に戻り仮眠を取った。プレーボール30分前の午後6時、神宮に入った。王は報道陣に予告していた。
「今日はね、満塁になったらクロウを出して4点取るんだ」
巨 0 0 3 0 0 4 0 0 1=8
ヤ 3 0 0 0 0 0 0 0 0=3
6回表2死満塁、スコアは3対3の同点だった。お膳立てが整った。王の代打コールに場内が沸き立った。退院したばかりのクロマティが、バットを持って打席に向かっていた。
尾花高夫が1-2から投じた外角のシュートを踏み込んで捉えた。打球は中堅左への36号代打勝ち越し満塁本塁打となった。王の予告通りとなった。
王と目を真っ赤にしたクロマティが抱き合った。お互い、泣いていた。巨人ナインが駆け寄り次々と抱擁を交わした。
ペナントレースの土壇場で起きた奇跡は、巨人優勝への追い風になる。大きな流れが来た。誰もがそう思った。
しかし「地味な助っ人」と呼ばれていたブロハードが唯一放ったド派手な一発は追い風を吹き飛ばし、王を奈落の底に突き落としたのだ。指揮官はほとんど話さなかった。
巨人は9日、大洋(現DeNA)との最終戦に勝ち75勝48敗7分で勝率6割1分0厘、広島はこの段階で3試合を残して71勝45敗勝率6割1分2厘だった。
広島があと2敗すれば巨人に優勝が転がり込んだが、広島は2連勝し、残り3試合を2勝1敗で逃げ切った。
広島の最終成績は73勝46敗11分で勝率6割1分3厘だった。巨人は3厘差で涙を飲んだ。
ブロハードはシーズン終了後にめでたく契約を更新した。だが、翌87年4月下旬にバリバリのメジャーリーガー、ボブ・ホーナーが来日して、2軍落ちを通告されると「ファームではやりたくない」と即座に帰国した。
王の「進退伺」は受理されることなく続投が決まった。87年、王は厳しい態度でペナントに臨んで4年ぶりに優勝を達成する。
自身初のリーグ制覇で後楽園球場最後の年を飾った。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。