長嶋茂雄が現役を引退した1974年のオフ、日米野球が開催された。来日したのはニューヨーク・メッツで、11月2日に対全日本軍第6戦が後楽園球場で行われた。
その試合前に「世紀の対決」が実現していた。日米の本塁打王である、王貞治とハンク・アーロンの本塁打競争だ。
対決は午後0時36分に始まった。5万を超える大観衆はしびれた。打球が上がるたびに、ワーッと大歓声が起こった。テレビの前のファンも同じだった。
アトランタ・ブレーブスに在籍していたアーロンは、右投げ右打ちの外野手で40歳。この時点で通算733本塁打だった。
同年4月8日のドジャース戦で通算715本を放って、「野球の神様」と称されるベーブ・ルースのMLB通算714本の記録を破っていた。
34歳の王は2年連続で三冠王に輝いていた。この時点で通算634本を積み上げていた。
この対決は、米国に全国ネットワークを持つCBSテレビがスポンサーとなって実現した。VTRでニューヨーク時間の2日午後から、1時間の「スポーツ特別番組」として全米に放映した。米国から急きょ派遣された記者は、なんと60人だった。一方で、メッツにはNYから担当記者が2人しかついて来なかった。
王のフラミンゴ打法は全米でも有名で、アーロンとの対決は注目の的だった。
本塁打競争の特別ルールは、打球がフェアゾーンに飛んだ5球ごとに交代し、計4回で争うというもので、20球のうち何本が本塁打になったかで勝者を決める。
下馬評は王有利、アーロン不利だった。
褐色の本塁打王が来日したのは前日の1日だった。シーズンが終わって1カ月以上経っていた。練習をしていない。しかも新妻と全米各地を旅行中で、愛用のバットを持ってきていなかった。物見遊山の雰囲気が漂っていた。
同日、両雄が並んで記者会見を行った。
「今は調子が良くない。でも10回くらいスイングをしたら、最高の状態になると思う。私は日本にわざわざ負けに来たのではない。できるだけ王に勝ちたい」
強気のアーロンに対し、王は謙虚だった。
「彼を目の前にして、これは大変なことになったというのが本音です。勝ち負けはともかく、2人が会えるのはこういう方法をもってしかなく、また日本でやれるということに意義があると思います」
そして続けた。
「感謝しています」
メッツに同行していたクリス・ペレコーダス(ナ・リーグ所属)が主審を務めた。結果は10対9でアーロンが勝った。
王貞治 ①3②3③1④2 計9
アーロン ①2②4③3④1 計10
だが、この本塁打競争には、王の打球に関してオヤッと首を傾げる判定が何度かあったのも事実だった。
王が先攻である。投手は「王の恋人」と言われていた専属打撃投手の峰国安、アーロンはメッツに同行していたピグナトーノ投手コーチだった。
第1ラウンド。王は5球目を右中間スタンドに運び1本目、2本目そして3本目はジャンボスタンドへ叩き込んだ。
アーロンはメッツ・クレインプール内野手のバットを借りた。軽いスイングで左翼席上段へ2本だ。
第2ラウンド。王の調子がいい。3本である。だが、アーロンがラッシュした。鮮やかに低めをすくいあげた。4本だ。
第3ラウンドで事件は起きた。王の2球目は、右翼席のポール際に飛び込んだ。線審の佐藤清次は右手を回した。
しかしペレコーダスは「ノー」。ファウルと判定した。佐藤は本塁打競争に備えて、右翼ポールの真下に立っていた。打球を最も見える位置にいたのに、取り消しだ。
王は1本に終わった。アーロンはエンジン全開で3本、王に2本の差を付けた。
そして、第4ラウンドにも事件は起こった。王は8本目を右翼に放り込み、続けて2本をポール際に打ち上げた。
佐藤は2本とも右手を回したが、ペレコーダスはファウルのジェスチャーを取ったのである。王は最後の1発を右翼席に突き刺して、計9本で終わった。
アーロンは2打席凡退したが、続いて左翼ジャンボスタンドに最高のショットで運んだ。推定150メートルだった。アーロンは「やったぞ!」と両手を高々と掲げて喜びを表した。
王は一言もペレコーダスに異議を唱えなかった。スポーツマンらしいさわやかな笑顔で、アーロンに駆け寄りガッチリと握手を交わした。結果として、MLBの本塁打王の面目が保たれたのである。
「私は勝ったが、王は偉大なバッターだった。34歳の年齢に似合わぬ若さだ。小柄な身体で遠くへ飛ばす」
賛辞は続いた。
「おそらく40歳までに800本を超えるのではないか」
王もまた「すごい打者だと思ったが、目の当たりにジックリ見て改めて偉大さを知った」と語った。
スポンサーからはアーロンに5万ドル(当時のレートで1500万円)、王には2万ドル(同600万円)が贈られた。
アーロンの1本塁打のお値段は150万円である。おいしい副収入になった。
王は76年10月10日にルースの記録に追いつき、翌11日に通算715本で追い抜いた。77年9月3日にアーロンの755本を抜き去り、名実ともに「世界の本塁打王」へ駆け上がった。
そして78年8月30日、アーロンの予言通り800本目を放った。
王はこの後、アーロンと親交を重ねて無二の友となり、野球の世界的な発展に尽くす。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。