「ウクライナ戦争と外交 外交官が見た軍事大国の侵略と小国の戦略」松田邦紀/2200円・時事通信出版局
ロシアのウクライナ侵攻開始から3年が過ぎた。果たして日本は、アメリカと欧州のどちらにつくべきなのか。前・駐ウクライナ特命全権大使の松田邦紀氏が、開戦前から現在までの情勢を語り尽くす。
名越 松田さんは、ロシアによる侵攻直前の21年10月から24年10月までの3年間、ウクライナ大使を務められました。その経験をまとめたのが本書ですが、短期間で書いたとは思えないほど臨場感がありました。
松田 外務省に入った時から、その日の出来事をメモに残してきました。ウクライナ時代も整理するのが大変なほど膨大なメモがあって、それを元に書いたため、比較的、短時間で仕上げることができました。
名越 キーウへの辞令を受けた時は、不安はありませんでしたか。
松田 それまでも危険な場所で仕事をしてきましたし、前職のパキスタン大使時代から、ウクライナで戦争になる予想はありました。やはり自分が担当をするだろうな、というのが正直な気持ちでした。
名越 確かにソ連、パキスタン、イスラエル、香港など、過去の赴任先は治安がよくないですね。とはいえ、戦時下のキーウの街は最も危険だったでしょう。
松田 意外でしょうけど、街を歩いていて恐いと感じたことは一度もありません。暴行や強盗、略奪などは皆無でした。
名越 それは民度が高いからなのか、戦争で国民が結束したからですか。
松田 両方でしょう。「男性が戦場に出たためDVが減った」と内務大臣も言っていましたし、夜間外出禁止令が敷かれたことで、深夜まで街をふらつく人もいなくなった。23時半を過ぎると帰宅者のタクシーが爆走していました。
名越 身の危険を感じたことはありませんでしたか?
松田 侵攻当初は、ロシア軍が近づいている音が聞こえてきて緊張しました。
名越 ロシアの戦車部隊がキーウまで60キロに迫った時ですね。
松田 戦車部隊より先に、先遣隊による銃撃戦が市内で繰り広げられた時が最も恐かったかもしれません。当時は、公邸地下の窓のない部屋で寝泊まりしていました。床に寝袋を敷いて寝るので体が痛くて、マットレスを準備しておけばよかったと後悔しました。
名越 22年3月末にロシア軍はキーウから撤退しましたが、あれで一安心しましたか。
松田 キーウは守られたという安堵感はありました。ただ、当時は食糧不足が深刻でした。それでも旧ソ連時代から多くの市民は田舎に畑を所有していて、最低限の食糧は確保できていました。「食べ物は足りていますか?」と、大使館の運転手から食糧をいただいたこともありましたね。
ゲスト:松田邦紀(まつだ・くにのり)福井県出身。1982年東京大学教養学部教養学科卒業、外務省入省。96年在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官。98年在ロシア日本国大使館参事官。01年外務省大臣官房海外広報課長。04年外務省欧州局ロシア課長。07年在イスラエル日本国大使館公使。10年デトロイト総領事。13年人事院公務員研修所副所長。21年駐ウクライナ特命全権大使。24年10月離任。外務省退官。
聞き手:名越健郎(なごし・けんろう)拓殖大学特任教授。1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社。モスクワ支局長、ワシントン支局長、外信部長などを経て退職。拓殖大学海外事情研究所教授を経て現職。ロシア政治ウオッチャーとして活躍する。著書に「独裁者プーチン」(文春新書)など。