戦後の日本を象徴するスーパースター・長嶋茂雄が逝った。涙雨の降る6月3日早朝、自ら「野球というスポーツは人生そのものだ」と語った通り「やきゅう」89歳の生涯だった。
1958年、当時の東京六大学記録である通算8本塁打の実績を引っ提げ立教大から巨人入りした長嶋は、デビュー戦で国鉄・金田正一に「4打席連続三振」。広島戦で1塁踏み忘れによるホームラン取り消しとなりながらも、本塁打・打点の2冠で堂々の新人王に輝いた。翌年には「天覧試合でのサヨナラ本塁打」、王貞治との「ONアベック本塁打」など大活躍の末、初の首位打者を奪取。守備ではホットコーナーでの華麗なるフィールディングで、「4番サード」こそが野球少年の憧れのポジションとなった。
「背番号3」「燃える男」「ミスター・ジャイアンツ」など数々の愛称で親しまれた長嶋だが、その活躍はしばしば岩戸景気、いざなぎ景気など昭和30~40年代の高度経済成長期になぞらえられる。戦後復興でがむしゃらに這い上がろうとした日本人にとって、横っ跳びキャッチ、ヘルメットを飛ばす空振り。こんな華麗で、かつ泥臭い長嶋の姿に酔いしれたのだ。巨人の「V9」黄金時代を築くなど、時代の申し子だった。74年「我が巨人軍は永久に不滅です」の名言を残しダイヤモンドを去ったが、引退後は2期、通算15年監督を務め、5度のリーグ優勝、2度の日本一を達成。96年の「メークドラマ」、00年の「日本シリーズON対決」など、冴えわたる野性的カンの采配は勝敗以上に話題となった。
ユニホームを脱いでからも持ち前の天衣無縫な明るいキャラクターで珍プレーを引き起こした。「ヘイ、カール」「サバは魚へんにブルー」「失敗は成功のマザー」‥‥、数々の「ミスター語録」は、かるたや日めくりカレンダーとなり、野球ファンのみならず老若男女から支持され、グラウンド外でも稀代のエンターテイナーとして燦々と輝くその笑顔は色褪せることはなかった。
私生活では65年、東京五輪コンパニオンだった亜希子夫人と交際3カ月の電撃婚を果たした長嶋だが、独身時代の自宅は檜風呂、結婚後も近所のラドン風呂に通い、グラブまでサウナ風呂に持ち込むほど、無類の風呂好きだった。今はゆっくり天上の極楽湯に浸かり富士山を見下ろしていることと信じたい。