地元関係者が明かす。「今から45年くらい前ですかね。隣接した土地が更地になったところで、長嶋家がその土地を買ったのです。おそらく投資用だと思うのですが、なにぶん固定資産税も高い。税金対策のためなのか、亜希子さんが畑を作って家庭菜園をしていま...
記事全文を読む→長嶋茂雄
「田園調布長嶋茂雄」と宛名を書いただけで、自宅にファンレターが届いたのは、スーパースターならではだろう。地域住民にも愛される一方、時には“お騒がせ”で頭を下げることもしばしば。かの地でミスターはどんな私生活を送っていたのか。語られなかった暮...
記事全文を読む→読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが89歳でこの世を去った。6月8日に桐ヶ谷斎場で行われた葬儀・告別式では王貞治氏(85)、松井秀喜氏(51)ら、長嶋さんと縁のある巨人OBが参列。そこには96年オフに「僕の胸に飛び込んできてほしい」と長嶋...
記事全文を読む→「巨人 VS 国鉄」プロ野球開幕戦・1958年4月5日「ミスタージャイアンツ」とも「ミスタープロ野球」とも呼ばれた長嶋茂雄さん(巨人終身名誉監督)が、さる6月3日、肺炎のため亡くなった。89歳だった。そこで今回は偉大なミスターへの追悼の思い...
記事全文を読む→先の平松氏とは打って変わり、長嶋を不得手にしていたのが、元中日の権藤博氏(86)だ。いまだ破られない492回1/3投球回で沢村賞を戴冠したルーキーイヤーからこっぴどくやられた。あの伝家の宝刀を打ち崩した、天才的打撃センスにアッパレを贈る。「...
記事全文を読む→昭和を彩った大投手の中でも「長嶋キラー」と呼べる筆頭は、元大洋の平松政次氏(77)だろう。いかにミスターを苦しめたかは対戦成績で明らかだが、相対するマウンドは余裕綽々とはいかなかった。むしろ、その内心は畏怖の念を抱くばかりだったようで‥‥。...
記事全文を読む→巨人の黄金時代を築いたONの裏話を、元ニッポン放送アナ・松本秀夫氏と、元巨人・岡崎郁氏が暴露。岡崎氏のYouTubeチャンネル「アスリートアカデミア【岡崎郁公式チャンネル】」で、まずは6月3日に他界した長嶋茂雄氏のカラオケ十八番を明かした。...
記事全文を読む→80年10月20日、広島市民球場での最終戦、巨人はAクラスの3位を確保したが、2リーグ体制発足後としては初めて3年連続で優勝を逃した責任を取らされ、翌日、長嶋監督は突然の解任となる。「最終戦、江川さんが先発して7回まで投げて僕は8回、9回と...
記事全文を読む→78年、大洋ホエールズの主砲・シピンが巨人に移籍する。それにより背番号が「11」から「45」に変更となったのが角盈男氏。クラブハウスに呼ばれて長嶋からはこう伝えられたという。「『悪いけど11をシピンに譲ってくれ。空いてる番号は45しかない。...
記事全文を読む→80年の“解任”から93年の監督復帰まで、ミスターの活躍の舞台は野球解説などの球界だけにとどまらなかった。その唯一無二の天心爛漫なキャラクターを生かし、テレビ出演やビッグイベントのアンバサダーなど、マルチタレントとして引っ張りだこに。テレビ...
記事全文を読む→数々のミスター伝説の中でも幾度となく語られるのが、79年に静岡・伊東市で行われた秋季キャンプ、通称「地獄の伊東キャンプ」だ。想像を絶する過酷なトレーニングに耐えた角盈男氏が回顧する。「投手だと午前中は投げるだけ、午後は走るだけ。野手の場合は...
記事全文を読む→野村はまさに記録の人である。現役通算3017試合出場、通算打率2割7分7厘、2901安打、657本塁打を歴史に刻んだ。54年にテスト生として京都・峰山高から南海に入団。一度は解雇を言い渡されるが、粘り腰で契約延長を勝ち取った。筒井敬三、松井...
記事全文を読む→長嶋はよく「記録よりも記憶の人」と称されるが、実際は記録も凄い。それが霞んで見えるのは、王の記録がそれに輪をかけて凄すぎるからだ。王が入団した59年から長嶋が引退した74年までの16年間、セ・リーグ打撃タイトルを2人でほぼ独占している。「首...
記事全文を読む→長嶋茂雄の野球人生を語る上で、最上位に位置するであろう2人の名前は欠かせない。野村克也と王貞治─。ライバルであり、盟友であった存在が、スーパースターを奮い立たせ、より輝ける高みに押し上げていったのである。1958年9月1日、東京駅頭に夕闇が...
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