なぜかブスの代名詞のようにディスられたものの、実際は絶世の美女だった。
鎌倉時代から室町時代にかけての男性の平均身長は159センチ、女性は149センチ程度と言われている。その時代に188センチで、弓の名手と伝わるのが「越後の鬼女」板額御前(はんがくごぜん)だ。
彼女は平安末期、越後平氏として越後(現在の新潟県)の豪族で、平氏の流れを組む城氏の姫として生まれた。ところが城氏は治承6年(1180年)から元歴2年(1185年)にかけて起きた、平清盛に対する反乱、治承・寿永の乱の影響で没落した。とはいえ、鎌倉幕府打倒計画に呼応した甥の城資盛の挙兵に参加し、反乱軍の将として鳥坂城に籠もり、佐々木盛綱らの討伐軍を手こずらせたという。
特に弓の腕前は超一流で、鎌倉時代の公式文書といわれる「吾妻鏡」の建仁2年(1201年)では、以下のような記述があるほどだ。
〈女性の身たりと雖もの百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめこの腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し」
しかし、多勢に無勢。次第に追い詰められ、質盛を逃がした板額御前の後方から、鎧でカバーできない腿を矢で射抜かれ、生け捕りになった。この時、彼女が甥のため岩を蹴って橋をかけたという伝説が残っている。資盛が「小太郎」と呼ばれていたことから、この橋は「小太郎ヶ橋」となり、転じて「樽ヶ橋」になったという。
この活躍で彼女の名は天下に鳴り響き、鎌倉幕府の2代将軍・源頼家はひと目見るために、鎌倉への護送を命じた。その様子を「吾妻鏡」では、
〈板額の容色は花のように美しく、まるで陵園の妾(りょう唐の詩人・白楽天の詩に詠われた薄命の美女)であった〉
と記されている。
本来なら女性とはいえ、反乱軍のリーダーである。よくて流罪、悪ければ死罪だが、御家人の甲斐源氏(今の山梨県)の一族・浅利与一義成が頼家に対して「彼女を妻として迎えたい」と懇願。この申し出が認められ、板額御前は甲斐に移り住み、生涯を終えたという。山梨県笛境川町小黒坂に、板額御前の墓所と伝わる板額塚がある。
(道嶋慶)