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記事全文を読む→「猪木VSアリ戦」50年の真実〈第1回〉(2)なぜ猪木を抜擢したのか?
NET内部で圧倒的な権勢を誇っていた当時の常務(のち専務)、三浦甲子二である。永里が「高見山案」を表向きでは進めていたのだが、三浦の脳裏には別の絵図が描かれていた。
「三浦さんは、最初から猪木さんしか念頭になかったんです。でも、永里部長には言わなかった。まず相撲協会との交渉を永里さんに任せ、自分は別ルートで外堀を埋めにかかっていた。実に用意周到な人です」
三浦が同社ニューヨーク支局を動かし、八田とアリの接触を調査させていたことを、舟橋はのちに知る。その相手が、前述のロッキー青木だった。青木の経歴は波瀾万丈だ。
「青木さんは慶應義塾大学でレスリングをやっていたのですが、師匠が早稲田の八田一朗先生。だから八田先生の電話と、青木さんのニューヨークでの動きは、実はつながっていた。そこが面白いところです」
青木は60年のローマ五輪の補欠選手という実力者だった。その後、八田のアドバイスでニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)に留学し、アマレスの全米選手権で3連覇を果たす。64年の東京五輪でも米国代表として選考を通過したが、市民権がなく出場を断念。2度の五輪出場の夢を絶たれ、ビジネスの世界で捲土重来を期した。
「ハーレムでのアイスクリームの移動販売から出発し、和傘のミニチュアをアイスに飾るアイデアが大いに受けた。ちなみに『ベニハナ─』はロッキーが父の湯之助さん、弟の四郎さんと創業した店です。辣腕のビジネスマン一家です」
猪木vsアリ戦の前に青木は、ある男の仲介によってモハメド・アリと深い信頼関係を結ぶことになる。
その男の名は、康芳夫。「一人電通」の異名を持つ呼び屋(興行師)だ。37年、中国人の父と日本人の母の間に生まれた康は、東京大学卒業後、「赤い呼び屋」と呼ばれた神彰の「アート・フレンド・アソシエーション」に就職し、興行師の道を歩み始めた。
「康さんは、モハメド・アリに日本で試合させることに執念を燃やしていました。アリ軍団に近づくために、イスラム教に入信して代々木のモスクに通い、さらにニューヨークのモスクにまで通い詰めた。その熱意は本物でした」
苦節4年半。ボクシングプロモーター・金平正紀の協力も得て、72年4月1日、康は日本武道館でアリ初来日試合を実現。しかし契約金が足りなかった。
「そこで康さんが目を付けたのがロッキー青木さんだったのです。交渉が難航する中、康さんが考えた妙案が、『調印式をベニハナ・オブ・トーキョーでやりましょう』という提案でした。青木さんにとってこれ以上の宣伝はなく、了承することになったのです」
調印式はもちろん、試合も大成功を収め、青木の名はニューヨーク中に轟いた。青木とアリの信頼関係は、ここから始まった。
「アリは試合後、青木さんに『日本でヘビー級プロボクサーを育てたい。日本に自分と戦える格闘家はいないか?』と相談したそうです。青木さんは『(アリは)取り巻きの生活を支えるためにお金が必要だったんだろう』と私に語っていました」
福田竜一(東京新聞)
写真提供/山内猛
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