1988年、新日本プロレスは藤波辰巳(現・辰爾)がアントニオ猪木に世代交代を迫る飛龍革命の勃発、猪木の命で武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也が闘魂三銃士を結成。解雇した前田日明が新生UWFを旗揚げ‥‥と相変わらず激動だった。一方の全日本プロレスは...
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アントニオ猪木の感性に陰りが見えた1987年12月27日の両国国技館暴動事件、前田日明解雇に連動する形での高田延彦、山崎一夫、中野龍雄、安生洋二、宮戸成夫(現・優光)のUWF勢の退団と、87年暮れから88年春にかけて新日本プロレスは再び激震...
記事全文を読む→1987年の新日本プロレスは、長州力をはじめとするジャパン・プロレスの大半の選手がUターンしてきた。86年1月から業務提携という形で新日本マットに上がっている、前田日明らのUWFを併せた陣容は84年の選手大量離脱以前の最強軍団に戻ったと言っ...
記事全文を読む→1987年の日本プロレス界は、長州力の全日本プロレス・マットから新日本プロレスへのUターンを巡る両団体のリング外の暗闘が軸になってしまったが、全日本にブルーザー・ブロディ、アブドーラ・ザ・ブッチャーがUターンすることを新日本が容認することで...
記事全文を読む→1987年春の長州力らジャパン・プロレス勢大量離脱によって、全日本プロレスは存亡の危機に立たされた。もともと、全日本は日本人VS外国人という力道山時代からの伝統を守り、ジャイアント馬場の人脈でアメリカの超大物選手が集結するというのが売りだっ...
記事全文を読む→1987年5月12&13日の新日本プロレス2連戦。長州力は全日本プロレスとの契約問題をクリアしないままリングに躍り込み、藤波辰巳(現・辰爾)、アントニオ猪木にラリアットをぶち込んで強行突破した。これにはジャイアント馬場が「何も決まらないうち...
記事全文を読む→1987年春、新日本プロレスへのUターンが囁かれていた、ジャパン・プロレスの社長兼エースの長州力が動いたのは3月28日。業務提携中の全日本プロレスの「チャンピオン・カーニバル」への出場をボイコットしたのである。ジャパンの竹田勝司会長と大塚直...
記事全文を読む→1987年3月23日、新日本プロレスへのUターンが囁かれる中で、長州力は東京・池尻のジャパン・プロレス本社で記者会見。3月末日で満了となる全日本プロレスとの契約を更新せずに、完全独立して全日本と新日本の両団体との交流を目指すことを発表した。...
記事全文を読む→1987年2月20日、長州力が消えた。この日、後楽園ホールで全日本プロレス「エキサイト・シリーズ」が開幕したが、長州は「発熱と神経性の下痢のために欠場」を発表。これは表向きの話で‥‥長州は午後5時過ぎ、ジャパン・プロレスの加藤一良専務に「今...
記事全文を読む→1985年暮れにジャイアント馬場とアントニオ猪木が水面下で握手、全日本プロレスと新日本プロレスの間に引き抜き防止協定が結ばれたことで、86年は両団体がそれぞれの活動に専念することができた年だ。新日本と前田日明率いるUWFの開戦は刺激的だった...
記事全文を読む→新日本プロレスは1985年12月6日、両国国技館で前田日明のUWFとの業務提携を発表。86年の新日本マットは、新日本 VS UWFの対抗戦を軸に展開されることが明らかになった。全日本プロレスからブルーザー・ブロディ、越中詩郎、ケンドー・ナガ...
記事全文を読む→全日本プロレスと連合軍を結成して新日本プロレスにとって脅威になった、ジャパン・プロレスは1984年夏の新日本クーデターから生まれた。事件収拾後にクーデターの首謀者だった、元営業部長の大塚直樹が新日本を退社した後に立ち上げた会社だ。もうひとつ...
記事全文を読む→ジャパン・プロレスは1985年11月1日から7日の日程で3回目の自主シリーズ「ニューウェーブ・イン・ジャパン」を開催した。当初、全日本とジャパンには「ジャパンは1年間に1週間の自主興行を3回以上に分けて企画し、主催することができる」という取...
記事全文を読む→1985年秋、苦肉の策でアンドレ・ザ・ジャイアントをジャイアント・マシンに変身させ、9月19日の東京体育館では「もう提供できるカードは、これしかない」と、アントニオ猪木VS藤波辰巳(現・辰爾)の師弟対決を組むなど、苦戦を続けていた新日本プロ...
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