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記事全文を読む→田中角栄 日本が酔いしれた親分力(3)悪条件が重なる大仕事への挑戦
田中は、結婚を機に、飯田橋9番地の、日本医大病院の真向かいにあった池田という材木屋の店と倉庫を買い取った。間口二十間で、電車通りに面していて、そこに事務所を移した。
翌43年(昭和18年)12月、坂本組の業務を引き継ぎ、田中土建工業を起こした。
田中土建工業は、資本金14万円。田中は、社の力以上の仕事を取った。
従業員に発破をかけた。
「10日かかるものは、5日でやれ! たくさん稼げば給料も、2倍、3倍と払う!」
従業員に発破をかけるだけでなく、自分が率先して働いた。
〈俺のように若い社長がふんぞりかえっていては、従業員がついて来るわけがない〉
田中土建工業は、年間施工実績で、全国で50位にランクされるまでにのし上がった。
44年の1月4日には長女の真紀子も生まれ、一層仕事に燃えた。
田中角栄は、45年(昭和20年)2月、会社の幹部6名を引き連れ、朝鮮の大田市に出かけた。戦火が激しくなったため、陸軍航空本部の命令で、理研工業の東京王子神谷町にあったピストンリングの工場設備を、大田市に移設する全工事を請け負ったのであった。
機械だけでも500台はあった。彼の受け持った工事費総額だけでも、2400万円の大工事であった。現在の金に換算すると、150億円は超える。それでも、大手の会社を含め、引き受け手がなかった。その当時、東海道線が寸断されていて使えないことなどの事情もあった。
田中は、上越線を使って機器を新潟へ送り、そこから船を利用して大田市に送ろうと企てた。
問題は、その船の調達である。田中は、新潟港に停泊中の駆逐艦の艦長を酒で懐柔し、駆逐艦を大田市近くまで走らせた。
この工事に対する所要人夫の延べ人員は、37万5000人にも達した。その金は軍の命令で、日本興業銀行の窓口から支払われた。
田中は、突貫工事のための木材集めに、現金を懐に、単身で朝鮮の新義州からトラックで水豊ダムまで、さらに水の上を碧潼まで駆けまわった。
田中は、45年8月9日、ソウルでソ連軍の満州、朝鮮への侵入を知らされた。
そして、8月15日、日本の敗戦を知った。田中は、その年の11月までに完成予定であった工事を即座に中断した。釜山で海防艦を5万円で買い、工場長以下赤子まで1人残らず、東京へ送り届けた。
田中も5日後の8月20日には、釜山から引き揚げた。青森に上陸、25日には東京に着いた。
田中は、その勢いをかって政治家になる‥‥。
作家:大下英治
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