その言うなら「外交のプロ」の幣原が、じつはやがて総理大臣となる田中角栄にとって、「政治の師」であったことはあまり知られていない。田中は生涯にわたり、自ら「三人の先生がいる。他に先生はいない」と明言している。一人は「恩師」として、新潟の出身校...
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昭和20(1945)年8月17日、終戦への道筋をつけて退陣した鈴木貫太郎総理のあとは、占領軍を迎えるという未曽有の事態を円滑に進めるため、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が就任した。日本初の皇族総理である。すでに、昭和天皇は「...
記事全文を読む→政権に就いたときすでに齢77、鈴木は総理としての大命が下る前に、「すでに耳は遠く、内閣首班としてその任にあらず」と拝辞したのだが、昭和天皇は「政治は知らなくてもいいからやれ」と大命を下したものだった。時に、陸軍にはこの内閣が「和平」へ踏み出...
記事全文を読む→太平洋戦争の戦局がいよいよ不利となり、東条英機政権が崩壊やむなしで次に担ぎだされたのが、陸軍出身、朝鮮総督の小磯国昭だった。しかし、小磯はまさに、「ひねり出された総理」と言えた。時に、知略に富んだ陸軍出身の軍人たちは前線に出ており、「人材不...
記事全文を読む→退陣後の東条は、東京・世田谷の自宅に引きこもる日々を過ごし、終戦の玉音放送もこの自宅のラジオで聴いた。昭和20(1945)年9月11日夕方、戦犯としての東条の逮捕のためGHQ(連合国軍総司令部)のMPの一団が自宅に到着すると、東条はそれを自...
記事全文を読む→近衛文麿退陣後、日米開戦を決断、「悪の権化」視された東条英機が総理大臣に就任するまで、次のような政権の動きがあった。近衛文麿の第一次内閣が、「日独伊防共協定」の強化問題などの難航で政権を放棄したあと、近衛の強い推薦で後継総理となったのは、わ...
記事全文を読む→それでも、さる永田町関係者によれば、進次郎氏の福島復興に懸ける思いは人一倍強いという。「進次郎氏以上に福島に足を運んでいる議員はいません。『中身がない』と批判もありますが、誰よりも被災地について勉強しているのは間違いない。具体的な政策うんぬ...
記事全文を読む→この作業員が続けて明かす。「俺たちがやっているのは、主に汚染水や、建物を解体したあとのガラ(産業廃棄物)の運搬がメイン。解体などで出てきた汚染物質は、原則的に集積場まで運んで一カ所に保管する決まりになっているけど、汚染水に関してはかなり適当...
記事全文を読む→アメリカでのあの発言でバッシングにさらされているのが、小泉進次郎環境大臣だ。国民的人気を背景に満を持して、閣僚入りしたのもつかの間、眼前には茨の道が。汚染水問題が取りざたされる福島原発を巡って、今も「裏社会支配」という、一筋縄では処しきれな...
記事全文を読む→近衛は、白皙の秀才だった。家柄は「五摂家」の中でも九条と並んで格が高く、ちなみに他の一条、二条は九条の、鷹司(たかつかさ)は近衛の分家となる。一高から東大哲学科に入ったが講義内容に飽き足らず、京大法科に入った。ここで、河上肇、西田幾多郎らか...
記事全文を読む→「近衛は弱いね」と、A級戦犯として東京裁判の軍事法廷に引き出される直前に服毒による自死を図った近衛文麿に対し、報告を受けた昭和天皇はポツリと言った。その遺書(昭和20年12月15日に記した2男宛)の一部には、自らは戦争回避に全力を尽くしたが...
記事全文を読む→国連演説での、いささか違和感のある表現や、環境問題への具体策を問われうまく答えられなかったことなどで、就任早々バッシングを浴びている小泉進次郎環境大臣(38)。国民的人気を背景に、満を持して、閣僚入りしたのもつかの間、待ち受けるのはイバラの...
記事全文を読む→遺体発見の前日にしたためられたと見られる昭和20(1945)年12月15日の2男宛に残された遺書には、自らは戦争回避に全力を尽くしたが、いま軍事法廷に引き出されることへの屈辱感が、次のように記されている。一切の弁明をせず、文官として唯一人、...
記事全文を読む→昭和7(1932)年の「五・一五事件」で暗殺された前回の犬養毅までが、原敬から数えて約14年間の戦前のわが国の政党内閣の時代であった。その後、キャリア外交官一人をはさんで三人の陸海軍出身の総理大臣が登場したが、強まる軍部の圧力、ファシズムの...
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