しかし、不運にさいなまれた鳩山にも、ようやく光明が巡ってきた。昭和28年4月、吉田茂による「バカヤロー」発言に端を発した解散・総選挙で、吉田率いる自由党は敗北、これを機に自由党内で「鳩山総理待望論」が噴出し始めたのである。鳩山の脇を固めたの...
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鳩山一郎が政界トップの座に就くまでは、常に吉田茂との対峙、“確執史”に彩られていた。二人は、「宿命のライバル」と言ってよかったのだった。鳩山の父・和夫は東京帝国大学教授。日本初の法学博士として、弁護士、東京専門学校(現・早稲田大学)校長を務...
記事全文を読む→三原じゅん子参議院議員が、過去に税金を滞納し、当時千葉県内にあった自宅が競売にかけられていたと11月19日発売の「女性自身」が報じた。三原議員といえば、自身のSNSで〈政権を握っているのは総理大臣だけ〉と発信。憲法65条では「行政権は、内閣...
記事全文を読む→憲政史上初となる2887日超えの政権最長記録がメディアで取り沙汰される中、安倍晋三総理が「桜を見る会」をめぐるスキャンダルで窮地に立たされている。その驚くべき舞台裏を、11月26日発売の「アサヒ芸能」(12月5日号)が明かしている。毎年4月...
記事全文を読む→その芦田は京都府生まれ、父の鹿之助は豪農で知られ、代議士を務めたこともある。その意味では、芦田はわが政治史上初の「二世代議士の総理大臣」ということになる。若い頃からとんでもない秀才で、旧制第一高等学校、東京帝国大学法学部仏法科いずれも首席で...
記事全文を読む→芦田均内閣は、政権タライ回しのなかで誕生した。前任の片山哲が政策の行き詰まりで総辞職したのであれば、本来なら「憲政の常道」で、政権は比較第1党の吉田茂を総裁とする自由党に回るべきものであった。しかし、芦田は前政権の片山同様、社会党、民主党、...
記事全文を読む→片山哲は生まれも育ちも、政治家とは無縁の人道主義者の環境の中にいた。父親はクリスチャンかつ高潔で鳴る弁護士で、母親もまたクリスチャンであった。母からは、幼くして「神様がお守りして下さるように」と、米国の女流作家バーネットの小説「小公子」の一...
記事全文を読む→片山哲総理大臣は昭和22(1947)年5月、この国の政治史上、「初づくし内閣」としての登場だった。新憲法施行後の初の内閣であり、加えて保革連立のなかで初めて社会党党首として首班に推されたからである。その1カ月前の戦後第2回目の総選挙で、片山...
記事全文を読む→自由民主党所属の三原じゅん子参議院議員が、11月2日に自身のツイッターでつぶやいたことがネット上で話題になっている。三原議員は前日の11月1日、自民党役員たちの組織図を公開。これに対して、〈女性局長頑張って下さい〉〈三原先生の重責を改めて思...
記事全文を読む→政界を引退した吉田は、かつての「ワンマン宰相」を引きずるように、生臭さは健在であった。敷地1万1千坪。その名も自ら“命名”した「海千山千楼」の神奈川県大磯の邸宅に昭和16年に雪子夫人を亡くして以来、吉田の身の回りの世話をし続けてきた東京の花...
記事全文を読む→都合7年2カ月の長期政権を誇った吉田茂総理大臣ではあったが、第4次内閣までの約4年間と、それ以後の退陣することになる第5次内閣までとの実績、リーダーシップの発揮いかんは、大きく異なることになる。政権の前半では、太平洋戦争の敗戦で大きな曲がり...
記事全文を読む→その吉田内閣が最も本領を発揮したのは、都合第5次内閣までの7年2カ月の中で、第2次から第4次内閣の半ばまでの約4年間と言えた。この間、吉田のなかには、国の命運がかかる講和条約を成立させる一方、対米関係を重視しながらも、折から米ソ冷戦時代に入...
記事全文を読む→敗戦による荒廃と、占領という未曽有の時代に、とにもかくにも国民を飢餓から救うため経済の復興に尽力、独立と国際社会への復帰のレールを敷いた吉田茂は、一方で独断専行への批判はあったもののその「胆力」、リーダーシップは戦後宰相の中では第一人者であ...
記事全文を読む→その言うなら「外交のプロ」の幣原が、じつはやがて総理大臣となる田中角栄にとって、「政治の師」であったことはあまり知られていない。田中は生涯にわたり、自ら「三人の先生がいる。他に先生はいない」と明言している。一人は「恩師」として、新潟の出身校...
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